《星星與蒲公英》
藍藍的天空深不見底
星星就像海裏的小石頭,
沉靜著直到夜晚來臨,
白天的星星 我們用眼睛看不見。
看不見它卻在那裏,
有的東西我們看不見。
幹枯散落的蒲公英,
默默躲在瓦縫裏,
直到春天來臨,
它那強健的根 我們用眼睛看不見。
看不見它卻在那裏,
有的東西我們看不見。
《踏步》
蕨菜葉一樣的雲彩飄過來,
春天來到天空中。
我一個人望藍天,
一個人踏步走。
我一個人踏步走,
一個人笑起來。
我一個人笑起來,
有人也跟著笑起來。
枸橘樹籬發了芽,
春天也來到小路上。
《氣球》
拿氣球的娃娃站在我身旁,
就像是我拿著一樣。
遠處傳來,滴的一聲笛子響,
廟會散去的背街上,
紅氣球,
白月亮,
掛在春天的天空上。
拿氣球的娃娃不見了,
我的心裏空落落。
《明天》
在街上遇到
母子倆
我好像聽到他們說
“明天”
小鎮的盡頭
晚霞紅滿天,
我知道春天要來的
那一天。
不知為什麽
我高興起來
心裏頭想的也是
“明天”
《泥濘》
這背街的
泥濘裏,
有一片
藍藍的天。
有一片,
好遠好遠,
美麗
清澈的天。
這背街的
泥濘裏,
是一片
深遠的天。
わたしと小鳥とすずと
わたしが両手をひろげても
お空はちっともとべないが
とべる小鳥はわたしのよいうに
地麵をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても
きれいな音はでないけど
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。
ずずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
即使伸開兩隻手
我也不能在天空走
飛翔的小鳥啊你能像我
在大地上快快走
即使搖動我的身
怎麽也不會發出聲
丁冬的鈴鐺啊你能像我
唱出那麽多好聽的歌
鈴鐺和小鳥還有我
大家不一樣、大家都可愛
這些清新小詩是要介紹給大家共享的。哈。
美好清麗的東西一定會流芳百世的。
星とたんぽぽ
青いお空の底ふかく、
??海の小石のそのように、
??夜がくるまで沈んでる、
??晝のお星は眼にみえぬ。
?? 見えぬけれどもあるんだよ、
?? 見えぬものでもあるんだよ。
??散ってすがれたたんぽぽの、
??瓦のすきに、だァまって、
??春のくるまでかくれてる、
??つよいその根は眼にみえぬ。
?? 見えぬけれどもあるんだよ、
?? 見えぬものでもあるんだよ。
足ぶみ
わらびみたよな雲が出て、
空には春が來ましたよ。
ひとりで青空みていたら、
ひとりで足ぶみしましたよ。
ひとりで足ぶみしていたら、
ひとりでわらえて來ましたよ。
ひとりでわらってして居たら、
誰かがわらって來ましたよ。
からたち垣根が芽をふいて、
小徑にも春が來ましたよ。
ふうせん
ふうせん持った子がそばにいて、
私 が持ってるようでした。
ぴぃ、とどこぞで笛が鳴る、
まつりのあとの、裏どおり、
あかいふうせん、
晝の月、
春のお空にありました。
ふうせん持った子が行っちゃって、
すこしさみしくなりました。
明日
街で逢った
母さんと子供
ちらと聞いたは
「明日」
街の果は
夕焼小焼、
春の近さも
知れる日。
なぜか私も
うれしくなって
思って來たは
「明日」
ぬかるみ
この裏まちの
ぬかるみに、
青いお空が
ありました。
とおく、とおく、
うつくしく、
澄んだお空が
ありました。
この裏まちの
ぬかるみは、
深いお空で
ありました
金子美鈴是日本大正時代的童謠詩人。大正處於明治與昭和之間,隻有十四五年的曆史。在日語中,童謠比我們中文所說的童謠或者兒歌更接近詩歌。她作品裏經常歌詠故鄉——山口縣大津郡仙崎村——這個美麗小鎮的景物和生活。她被西條八十讚賞為童謠 “巨星”,作品洋溢著絢麗的幻想。這位天才的詩人隻活了二十六年,死後作品也被人遺忘,像是流星一閃而過,直到1984年,三卷本的《金子美鈴全集》才問世。