昨日、母が一泊の団體バス旅行から帰ってきました。この時期に団體バス旅行なんて、何時に向こうに著けるか、何時に帰ってこれるかわからないよ、などと皆で脅すし、母も覚悟して行ったのですが、予想に反して行きも帰りもすいすい、だったそうです。
父は母の旅行の予約の話を聞いたときから、馬鹿な奴だ、とせせら笑っていたので、ニュースの渋滯情報を聞いて、
「おかしい、今日は全然渋滯してないみたいだぞ。」
と、少しがっかりしていたようでもありました。帰ってきたら、そらみたことか、と言いたかったのでしょう。
金曜日には、
「高速が1000円じゃないからな。やっぱり1000円の土日に集中するんだろう。」
などと言っていましたが、土曜日もそんなに混んでいる様子がなく、盛んに首をかしげていました。
不思議です。どうしてでしょうね?皆、出控えたのかな?
今日はさすがに夕方から混むようです。
さて、
前回いただいたコメントへの返信で、簡単に“かけがえのない命”などと言う言葉を使ってしまったけれど、つれづれなるままにさらに考えてみると、どうしたら自分の命がかけがえのないものだと感じられるようになるのだろうという疑問が浮かんだ。
“その他大勢の私”を“かけがえのない私”と感じるようにさせるのは、周囲とのつながりにおいてだろうか、という自問自答。周りに或いは社會に認められなければ、個としての“私”は成り立たない、消滅してしまうのだという気がする。
以前、新聞で高校生の息子を自殺で失った父親の話を読んだ。
息子が自殺する前、彼は息子に「自分を大切にしろ。」と言った。でも息子は「自分が自分でいるために死ぬ」という遺書を殘して命を絶った。今、父親は、違うことを言えばよかった、と後悔している。自分のために生きろ、ではなく、俺のために、母のために、周囲の人間のために生きろ、と。
その言葉だったら、息子の胸に響いただろうか?
難しいと思うのは、個性をつくるということは私の世界をつくるということなんだけれども、でも一方で私の世界をつくることで、他人の世界との間に壁が築かれてしまう。私とあなたとは別々の人間で、それが個性というものなので、そこにどういうつながりを見出していったらいいのだろう、と思ってしまう。
極端に狹い私の世界と、細い細い糸のような周囲とのつながり。
広くて伸び縮みする柔軟な私の世界と、周囲とつながる複數のパイプを形成するには、どうしたらいいのだろう?