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夫婦別姓

(2009-10-31 05:44:17) 下一個
 
 時々訪れるブログがある。ものの見方や考え方が自分と似ていて、共感することが多い。たいていは、同感同感、と思いながら読む。ところが先日、そのブログで夫婦別姓が取り上げられていて、めずらしく記事の主旨に賛同できなかった。(記事はこちら。)それで、ああ、この感覚の違いはきっと男女の差なんだろうな、と思った。

 現行の法律では男性の姓を選ばなければならないとは規定されてない、女性の姓を選んでもいいのだから、決して男女不平等とは言えまい、それに女性が結婚して姓が変わったからといって仕事上特に支障をきたすとも思えない、逆にひとつの家族の中で姓が異なることによって不便が生じることの方が多い、子供の問題も然り。…と、だいたいこのような主旨であった。
 夫婦同姓で何の不便もないし男女不平等でもなんでもないじゃないか、と當然至極のように思う男性と、結婚の際に姓が変わることによって大なり小なり意識の変革をせまられる女性と、そこに性差による溫度差を感じずにはいられない。

 そう思っていたら、27日の朝日新聞に興味深い投書を見つけた。38歳の主婦の投書である。全文を引用する。

 夫婦別姓を選ぶことができる民法改正案が來年の通常國會に提出されそうです。私は、なぜ今、法律を変えようとするのか分かりません。私は結婚、離婚、そして再婚をしました。今は三つ目の名字です。名字が変わる度に職場やプライベートで新しい姓を名乘り、皆さんに理解してもらってきました。
 ただ、心配は小學校高學年だった子どもたちでした。離婚後、前夫の名字のままにしました。再婚の時、親の都合で新たな名字を名乘らせるかどうかを悩みました。「新しい名字に抵抗はあるの」と尋ねると、「家族だから同じ名字がいい」でした。子どもたちにとっても、名字が家族の証しなんだな、と思い知らされました。
 夫婦別姓になれば、子どもの名字は結婚時に決めておくようです。でも、家族同姓という一世紀餘続いた良き日本文化を崩してしまうことはありませんか。じっくり議論してもらいたいと思います。

 うーん、これを読んで、考え込んでしまった。
 まず、私から見ると、結婚、離婚、再婚によってその度に姓が変わる不便さを思うと、生まれながらの姓を一貫して持ち続けるほうがよっぱど楽で便利なんじゃないかと思う。しかし、投書の女性はその部分を、「皆さんに理解してもらってきた」と、名字の変化があっても社會がちゃんと受け入れてくれるから問題ないと言っている。
 子どもの問題にしても、合理的に(と私が思う)考えれば、親の都合によって名字がころころ変わるよりも、何があっても“僕の名前”は生まれたときからずっと同じだ、というほうが気分的に楽なんじゃないかと思う。
 先のブログの主は私の感覚とは逆に「家族同姓の方が便利」だと書いていた。投書の女性は「名字が家族の証し」だと書いている。
 ああ、そうか、ここで重要なのは、社會が家族を単位として構成されていることだと気づく。社會と有機的に結びついているのは、まずは“世帯”であり“家族”であって、個人ではない。
 だから、個人という立場からみれば、生涯ひとつの名前を持ち続けるほうが便利だけれど、社會(或いは世間)からすれば家族をひとつの単位として取り扱うとき「家族同姓」であったほうが便利である。“便利さ”という點を取り上げれば、誰にとっての便利かによって答えは違ってくる。
 女性の名字が変わることによって、周りの人間(世間)は、ああ、あの人は婚姻に関して何か変化があったのだな、と事情を「理解」し溫かく受け止める。子どもも、父と母と自分とが同じ名字を持つことによってひとつの家族だと証明し得る社會的通念の下に育つ。私たちの生活している社會はそういうふうに出來上がっている社會であって、実際の社會のあり方に沿った製度が現行の家族同姓なのである。

 投書の女性は「家族同姓という一世紀餘続いた良き日本文化」と書いているが、たった100年餘り?この良き日本文化とはたった100年餘りの歴史なのだろうか? もしかしたらここで女性が感じている「良き日本文化」とはたった100年どころの歴史ではないんじゃないだろうか?私は歴史には疎いのではっきりしたことは知らないけれど、家族同姓が製度として整えられてからは100年だとしても、家に屬することがまず第一義であって、実際の生活のあらゆる局麵が家ごとに括られてきた歴史はもっとずっと長いんじゃないかと思う。ただそういう実態を管理しやすいように、戸籍を作り夫婦同姓を製度的に定めた歴史がたった100年だということにすぎないのじゃないだろうか。
 だとすると、こういう考え方もできる。夫婦同姓が製度として定められる以前も、あらゆる生活の麵で家が重要な単位とみなされ、家を基準に社會関係が築かれてきたとするならば、製度として製定してもしなくてもそういう実態が長年の伝統としてあったならば、多少製度を緩やかにしたとしても関係性が簡単に崩れることはないのではないか。
 いや、それとも崩れるのか?崩れそうだという不安があるから、製度で繋ぎとめようというのだろうか? 

 夫婦別姓を取り入れようと聲をあげている人々も、実際に別姓にしたい、するつもりだと思う人たちのほうが少數派であることを知っている。少數派を排除しない、自由な選択肢を與えるというのが民主主義なので、例え夫婦同姓が社會に広く支持されているとしても、支持しない人たちにそれを強製すべきでない、という考え方に基づいて法案を推進しているらしい。

 法が改正されたとしても、それはこれからずっと少數派の選択肢に過ぎないのか。それとも製度を変えることによって、「良き日本文化」は徐々に崩れて(或いは変化して)いくのか。私には予測がつかない。もし崩れるとしても、それは夫婦別姓のせいではないような気もするのだが。

 
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