皆既月食と浦島太郎
(2011-12-12 05:14:06)
下一個
昨日12月10日は皆既月食だった。始めあまり興味がなかったのだが、母がカメラを持って何度も玄関を出たり入ったりするので、つられて表に出てみた。夕方家に帰ってきたときはまん丸お月さまだったのに、夜10時過ぎに外へでて見上げると、お月さまが半分くらいになっていた。
その時思ったのは、なんだ、結局、これは見慣れた半月じゃないか。ある日ふと夜空を見上げて、ああ、今夜は半月だ、と気づくのと同じで、特別めずらしくもなんともないんだけど…、と母に言うと、ひと月かけて起こることが數時間の間に起こるってことがめずらしいんじゃない、と反論された。
月は普段から満ち欠けするけど、太陽はいつでもまん丸全開で輝いているので、だから皆既日食の方がとりわけ神秘的なんだ、と思った。
しかし、その後、何度か表に出て月を見上げ、欠けていく様子を目の當たりにするに従って、なんだか不思議な気分になってきた。
11年ぶりだって。
11年前っていうと、私たち、何をしてただろうね?
11年前も見たかな?
見たような気もするけど、気のせいかも。
うーん、よく覚えてない。
などと、寒さに震えながら話してるうちに、空の月は少しずつ細くなっていく。十年前って、私は何をやってただろう?と考えたら、ふっと、あれ?10年前って何歳?今、自分は幾つ?と自分の年がわからなくなって、母に、
「私って何歳だっけ?」
と問いかけ、何言ってるの?馬鹿じゃないの、この子?と変な顔をされた。
自分でもボケてしまったのかと、ちょっとびっくりした。その時、私は、10年前と今とが全く同じ地點にあって、時がちっとも流れていないような不思議な感覚に襲われたのだ。
これはいったいどういう心理作用だろうと、考えてみる。
本當はひと月の間で起こる月の満ちかけが、この數時間に凝縮されて、刻一刻に起こっているのだというそのイメージが、ひと月という時間の流れもこの刻一刻の時間の流れも、実はまったく同じ長さなのではないかという錯覚に、私を陥れた。そして10年前にも同じ現象が起きていて、こうやって同じように月の満ち欠けを眺めただろうかと想像することによって、10年前の時が今の時空に引き寄せられて重なった。それが、私はいくつだろう?時は流れているのだろうか?という問いに繋がったのだ。
本當は時の流れというのは、存在しないのではないか。時は、人が「時」という概念を創り出すことによって流れ始めるものであって、もしその概念をすっかり取り去るならば「時」は止まり「永遠」が姿を現す。
そんなふうに考えていたら、浦島太郎のお話が頭に浮かんだ。
昔から、浦島太郎のお話って不思議だ、と思っていた。ただ珍しく麵白く月日のたつのも夢のうち、と思っていたら、あっという間におじいさんになってしまうなんて、これはいったい何を言いたいの?亀を助けるといういい事をした浦島太郎が、こんなひどい仕打ちを受けるなんて、なんて理不盡なんだ。
しかし、皆既月食を見ていたときに感じた不思議な感覚を浦島太郎のお話に重ねてみると、浦島太郎は竜宮城という「時」のない楽園で「永遠」という幸福を味わっていたのではないか、ということに思い至った。
浦島太郎という昔話は実は、時の流れに逆らえない肉體を持つ人間が、時を止め永遠を手に入れることを可能とする秘密の術を諭したものなのかもしれない。
その術とは、つまり、玉手箱を開けないことなのだ。