もう過ぎ去った話題で恐縮だけれど、石原慎太郎東京都知事が、11月4日の定例記者會見で、東日本大震災で発生したがれきの受け入れに反対の聲があることについて、次のように話した。
記者:「東京では昨日からがれきの受け入れが始まりましたが、持ってこないでくださいという抗議の電話やメールが3千件以上、え~、…」
(記者が質問を言い終わらないうちにかぶせるようにして)
石原知事:「ああ、みんな言うのよ。今、皆、簡単な憶測で。そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか。みんなで協力しなかったら。放射能があれば別だけどさ。川崎なんかもね、それを識別せずにだね、いきなりああいうふうに言わないほうがいいと思うよ、私は。力のあるところが手伝わなかったらしようがないじゃないですか。みんな、もう自分のことしか考えないから、日本人がだめになった証拠のひとつだよ、そういうのは。何も放射能ががんがん出ているものを持ってくるわけじゃないんだから。測ってなんでもないから持ってくるんだから。東京だってばかじゃありませんよ。そりゃ。
黙れ、って言えばいいんだ、そんなもの。
これを聞いて、ああ、石原慎太郎が根強い人気がある理由がわかるような気がした。この発言と同じように思う人々が、がれきの受け入れに反対して抗議の電話やメールを送る人たち以上にたくさん、いるだろうと思う。
私自身も、抗議する人々の気持ちより、この知事の発言の方に共感する。
この発言の主旨自體はとてもまともだと思う。まともなんだけれども、この人の困るところは、どうしても「日本人がだめになった」ってところに結びつけてしまうところだ。
こうあるべきだと石原さんが考える理想の型にはまらなければ、日本人はだめなんだと言う。日本人全體がだめになった、昔の日本人は立派だった、立派でなければ日本人じゃない。まるで戦時中の「非國民」を指すみたいにね。
こういう考え方は、私にはどうも受け入れ難い。
日本人がだめであろうとなかろうと、政治家はやるべきことをやらなくてはならないし、かたづけるべき瓦礫はかたづけなくてはならない。…と思うよ。