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澱んだエネルギー

(2011-11-20 01:17:06) 下一個
 
 先日、宗教団體のことについて少し觸れたら、オウム真理教のことを思い出した。ちょうどもうすぐすべての裁判が終わるとのことで、朝日新聞で、連載を組んでいることもある。
 私は、他人の命にせよ自分の命にせよ暴力的に命を絶つことを許す教義を持つ宗教は、本來必要とされる宗教の精神から外れる歪んだものだと思っている。
 宗教とは、人が生きる上で付き物の生老病死の苦しみや或いは社會から受ける軋轢や苦悩を、精神的に救ったり和らげたりするためにあると思う。そうして和らげられた精神を社會にフィードバックしていくことが、社會を変えていく手段ともなるのではないだろうか。

 一方で、歪んだ教義を持つ宗教が生まれる社會的背景も見過ごせない。
 オウム真理教事件も、多くの被害者が、裁判によって明らかにされない秘密にもどかしさや憤りを感じているようだ。なぜ多くの真麵目で優秀な若者がテロ行為に走り、なぜそのために多くの人が犠牲にならなければならなかったのか、その根本的な原因は今でもベールに包まれたままだ。
 (もっとも、裁判というのは人を裁く場所、量刑を決めるための場所であって、真実を追究する場として期待するのはそもそも無理な話なのかもしれない。)

 心に抱える不満や怒りや葛藤をまっとうな健全な形で対象に訴えることができないとき、澱んだエネルギーは出口を求めて渦巻き、マグマのように力を蓄えながら、容易に歪んだ方向へと誘導される。そして、そういうエネルギーをたばねて利用しようとする組織や勢力が現れる。
 社會や権力の圧力が人の心に暴力的にのしかかってくればくるほど、それに応じて反発する暴力的な力が返ってくるのかもしれない。


 

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