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原発再考

(2011-09-05 07:55:08) 下一個
 
 前回書いた原発関連の話にameriさんからコメントをいただいて、それに対して返事を書き、書いた後、私は見當違いをしていたということに気づいたのでした。
 原子力発電所というのは13ヶ月ごとに一度検査を行うらしい。なので、再稼動の條件や地元自治體の考え方によって再稼動ができないならば、來年には日本全國すべての原発が止まる可能性があるので、それが経済界や政治家にとって目下の大問題ということなのですね。それで、何がなんでも菅さんを引き摺り下ろさなければならなかったのでしょう。
 原発を新設せずに今ある原発に壽命が來て徐々に廃爐になれば、自然と原発はなくなる、その間、30年か40年の間に代替エネルギーを開発していけばいい、なんて思っていた私に「反原発」なんて言う資格はどうやらないようです。
 ここ10年から30年の間に各地で地震が発生する確率が高まっているようです。いつ起こるかわからない災害に対して徐々に減らすだなんて悠長なこと言ってられない、というのも自然な感情です。

 事故直後は原発に対する間近な恐怖というのをひしひしと感じて、だから浜岡原発が停止したとき、私はほっとしました。原発をなくそう、というのは、ひとつにはそういう危険をもたらす可能性のあるものが身近に存在している恐怖、それを取り除いて安心を取り戻さなければならない、という欲求だと思います。
 私は、自分自身も持っている生命の危機に対する恐怖心を否定できないし、そういう動機は行動を起こす推進力になるとも思うのだけれども、恐怖心だけをバネにした行動というのはなんだかとても不安定というか、信用ならないものであるような気がします。恐怖心は過剰で極端な防衛反応を引き起こすのではないか。10年前の同時多発テロ(9.11)後のアメリカのように。

 一方で、刹那主義的傾向のある日本人は、時が経つと一時的な恐怖心というのも忘れてしまいがちになります。これは悪いことではないと思います。一日一日を一所懸命、こつこつと真麵目に暮らすことこそ、人の生き方として大切なことだと思うので。けれど、そうやって今を生きていくことは、恐怖心をバネとした行動も時とともに動機を失って行くということになりはしないだろうか。70年代80年代に盛んだった反原発運動がその後振るわなくなってしまうのも、それが不安や恐怖の麵から語られることが多かったからではないでしょうか。

 だから、原発をなくそう、という動機を長期的に持ち続けるためには、感情に突き動かされるものでない、もっと抽象的な概念や理念或いは文明論のような観點を取り入れることが必要なのではないかと思います。例えば、原発とは何か、とか、そういうところから議論を始めたらどうだろうと思うのですが。
 新聞や雑誌にも、ちゃんとそういう話をしてる人たちも出てくるのに、個人の考えや意見、論、としてしか紹介されない。どうして社會全體の潮流やうねりにならないのか、その辺がよくわからないところです。


(2011.9.6修正)


 
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