6月28日の朝日新聞で、大阪府の君が代起立條例について、大阪府知事の橋下徹と元自民黨性鶴h員の野中広務がそれぞれ持論を語っている記事が目に留まった。
真ん中辺りの目立つ場所に大きく○と×が印されていた。條例に賛成という意味で(條例を作った當人なのだから當然なのだけれど)橋下さんは○、野中さんは反対だという意味で×印がついている。
しかし內容を読んでみると、両者の意見の相違は君が代や日の丸を強製することの是非にあって、両者ともその二つを日本の國旗と國歌であると認めることは論ずるまでもなく當然だと考えているらしい。○か×かというのは、ただ強製すべきかすべきではないかという方法論の賛否だった。
私が期待していたのは、日の丸はともかく、どうして君が代が日本の國歌たり得るのか、というその根拠についての論議であったので、がっかりした。
斷わっておくが、私は君が代が日本の國歌であったって、別にいいと思う。いいんだけれども、その根拠を知りたいと思う。
君が代を國歌とするからには、やっぱり日本が“君の代(世)”であることを日本國民が共通認識として意識の上に浮かび上がらせなければいけないんじゃないだろうか。
政治のシステムとか詳しいことは私にはよくわからないのだけれども、天皇が存在する以上、日本は立憲君主製ってことだと思うのだけれど、その認識は合っているだろうか?「國王は君臨すれども統治せず」という言葉があるように、イギリスやタイやブータンなどと同じように、日本には天皇が君臨していると考えていいと思うのだけれども、ちょっと自信がない。象徴と君臨は違うのだろうか。(だからこそ私はその辺を知りたいのである。日本國とはいったいどういう仕組みによって成り立っているのか、という部分である。)それがはっきりすれば、君が代も、日本國に君臨する天皇への敬意を表すために、千代に八千代と心から敬意を持って讃え、歌うことができるんじゃないかと思う。
歌の歌詞そのものが明らかに天皇への敬意を表しているというのに、その意味を問わずに或いは曖昧にして、もしくは論じることを放棄させて、単なる管理のためやルールのために強製しようということはかえって危ないことなんじゃないだろうか。國旗や國歌を単に組織のマネジメントの道具として扱うということ、それはまさに戦前戦中に天皇を利用して國をひとつにしたやり方そのものではないのか。
強製に反対する野中さんも、「暗い時代を知っているからこそ、私は物事を一色に染め上げるような動きに対して生理的に反発するようになった」と言い、「あの狂った時代を知らない政治家が増えていることに危機感を持っている」と言う。これには同感だが、一方で野中さんは次のように言う。
私は、學校できちんと國旗・國歌を教えるべきだと思っています。この國を愛し、この國のシンボルはこれだと自然に浸透していって欲しい。ただし強要する筋合いのもんじゃない。
「教えるべき」だと言う一方で、「自然に浸透していって欲しい」というのは矛盾するように思うのだけれども、自然に曖昧にしていたらやっぱりきっと橋下さんみたいに強い方へとひっぱられていってしまいそうな気がする。この國のシンボルはこれだと、その根拠は何だと、はっきりと言語化しなければ、學校で教えることはできない。意味も目的も根拠も曖昧なまま、なし崩し的に現狀がただ肯定され続けていくようなやり方は、原発が存続してきた過程と同じじゃないかと思うのである。