26日の朝日新聞の記事。米倉経団連會長は朝日新聞などのインタビューに答え、
原子力発電の是非について「世界のエネルギー政策の柱として、原発は避けて通れない。安全策を見直すべきだ」と延べ、今後も原発の必要性は変わらないとの考えを示した。
これは、先日このブログで書いた私の父の考え方と同じだ。
私はそうは思わない。どんなに安全策を講じても、現在の人類にとって原子力は完璧に製禦することの難しいエネルギーであって、転換に大きな困難が伴うとしても、徐々に手放す方向に舵を取るべきだと思う。
しかしこれを、「どちらが正しいか」という形で議論することは、とても難しい。異教徒同士が、「どちらの神が正しいか」と議論するのに似ている気がする。
同じ日の朝日新聞。作家の高橋源一郎氏が書く文章の中で、自民黨議員の河野太郎の言葉が紹介されていた。
…ずっと先の世代を縛るわけにはいかない、それは、経済的合理性の問題ではなく、「文明論に近い」問題なのだ…
私たちは、未來に向けて、どのような思想を中心として、どのような文明を作っていこうというのか。私たちの意誌はどこにあり、どこへ向かっていくのか。
推進派だとか反対派だとか、既存の思想の対立項から、「広く、遠く、枠を広げて論じる」(「」內は高橋氏の言葉)ことが必要なのかもしれない。
それにしても、最近の世界の出來事の流れに目を向ければ、個體としてのひとりひとりの人間の頭や感覚を通して導かれる意誌が社會の総體に大きな影響を與えていく傾向があるように思う。
中東の民主化、原発事故、ビンラディン殺害、ハッカーによるソニーの情報流出などの大きな事件の過程や経過を見ると、昔なら國家や組織の秘密として一部に獨占されてきた情報が、広く民眾に共有される時代になったと思う。 人々は、支配層が一方的に流す情報や思想を容易に信じなくなっている。個人が國や大企業に暴力的な形で大きな損害を與えることも可能となった。思想的組織的な強製によって人々を支配することがどんどん難しくなっている。
(だからこそ、より組織の統製力や支配を強めようという反動的な動きも出てくるのかもしれない。)
…などと考えていたら、29日の朝日新聞でオピニオン編集長の大野博人氏の文章が目に留まった。
話の中心は、一年前、アイスランドの首都の市長に當選したコメディアンのヨン・グナール市長についてであった。「既成政黨は退屈で創造性もない。何とかしなければ」と出馬した市長も、実際に市長として政務に攜わってみると現実主義者にならざるを得ないという経済グローバル化時代の民主主義の問題點が指摘されていた。
経済がグローバル化すればするほど一國の政策の選択肢は限られていく。
…中略…
そして、本當に選択肢はないのか、「カルテル化」したエリートたちの失敗のつけを回されているだけではないか、という不信感が人々の間に広がる。
日本にも重なる政治風景だ。
次々と首相や與野黨が入れ替わっても閉塞感は去らない。深刻な財政赤字に痛みをともなわない解決という選択肢はないかもしれないが、政治家を信じられない。
原発の將來についても、世論に「脫」の聲は小さくないのに、民主黨も自民黨も、その民意を真正麵から受け止めようとしているようには見えない。本當はだれの聲を代表しているのだろうか、という疑問がぬぐえない。
先に、私は、民眾のひとりひとりの意誌や力が政治や社會に影響を與える傾向が世界に広がっていると思う、と書いた。確かにそういう個人の自由な意誌の実現が可能であるかのような雰囲気を感じるのに、もう一方の現実には、エリート層が囲い込み獨占している高く厚い政治の壁があって、それが民眾と政治とのつながりを妨げている。
ヨン・グナール市長は、創造性のある政治の実現を目指し市民の支持を得て當選したにもかかわらず、実際に政治家という立場になると、現実の経済的問題を日々処理していくことに目一杯となった。ますます複雑化する経済と、その複雑な経済によって網の目のように繋がる複雑な関係。現代の政治家は、市民の聲の代表者としての役割を擔うのではなく、組織の管理やシステムの経営者としての役割を負い、自ら市民との間に壁を築いているのではないか。
日付を戻して26日、もうひとつ印象に殘る記事があった。
大阪で橋本知事率いる「大阪維新の會」が、君が代の起立斉唱を義務付ける條例案を提出した。橋本氏は、「思想良心の自由でなく、組織マネジメントの問題だ」と語り、これは、教職員の「服務規律の厳格化」を意図するものだ、と言ったそうだ。
なるほど。組織のトップである彼が語るべきは思想良心でなく、服務規律の厳格化や組織のマネジメントなのだ。組織それ自體が円滑に運営されること、規律が保たれること、彼にとってはそれがとても大事なことであるらしい。
東電や國も、今まできっと、組織の円滑な運営を妨げる様々な聲を押し殺してきたことだろう。
森林朝陽さん、ありがとうございます。
社會が不安定な時は、保守的な力が強くなる傾向にあるようです。