車を運転していたらラジオから流れてきた曲に、うん?と思った。その曲が耳に入るまではいい加減に聞き流していたので、タイトルも歌手名もわからないまま曲が始まった。
ヘイ! おいらの~ 愛しいひ~とよ~♪
おいらのため~にクッキーを 焼~いて~くれ♪
ずいぶん時代錯誤の歌だな、と苦笑した。図々しい男だ、きっと昔の歌なんだろうな。
ところが、次のフレーズを聞いて、ちょっと言葉のセンスが普通じゃない、とたちまち引き込まれた。
まず始めに、毎日の生活の鬱屈ややるせなさ、「僕」の抱えてる感情が、巧みで獨特な表現を通して、ずしりと伝わってくる。
とりとめのない孤獨、目隠しされたまま仕事抱えているよう、目頭とがらせて競い合ってるだけ、生きてゆくための愛し方さえ知らない…
次に、「僕」を取り巻く今の社會がどんな社會なのかということが語られる。
人を脅かすニュース、美味しい食事にさえありつけない、空から降る雨はもう綺麗じゃない、狂わされた季節、偽られる正義や真実、もて遊ばれる人の命…
今の社會にも共通するような問題を、短い歌詞の中でくっきりと浮かび上がらせている。
それから、そういう様々な問題點を抱えた社會と自分との関係性についての疑問、憤りが表出される。
好き嫌いなく食べろと、大人の言うことを信じろと、噓をつくなと、言われ育った、答えを出さなければならなかった、親が作った経済大國、一人歩きする文明、法律の名のもとに作り上げた平和…
「僕」は社會の欺瞞を見抜き、「首をひねって悩むのは何故」と問いかける。號令のように唱えられてきた価値観や道徳に疑問を投げかける。「未來を信じて育てられて來たのに」、今、本當の幸せがこの社會にあるのだろうかと。
最後に、僕は、「答えはまだ何も出されていない」けれど「明日を信じて生きてゆこう」と思う。「急ぎ過ぎた世界の過ちを取り戻そう」と思う。
生活の鬱屈と社會や大人たちへの不信や疑惑を語る合間合間に「愛しい人」への希求が幾度もリフレインされる。僕が未來を信じ生きることができるのは、僕のためにクッキーを焼いてくれと呼びかけることのできる愛しい人がいるから。大人たちが約束したはずの楽園にたどり著けなかった僕は、僕のためにクッキーを焼いてくれる愛しい人に呼びかけることによって、自分自身の楽園を思い描き、明日を信じて生きていくことができる。
こうして最後まで聞いてみると、「おいらにクッキーを焼いてくれ」というセリフは陳腐でも図々しくもなく、実に切実な希求として私の胸に響いてきた。
曲が終わって、それが尾崎豊の歌だと知らされたとき、そうか、道理で、さすがだ、と納得した。
でも、もしかしたら、尾崎豊の生きていた時代はまだましだったのかもしれない。「おいらのためにクッキーを焼いてくれ」と言うセリフがそのまま通用しただろうから。今日では、男性諸君はこういうセリフを吐くことすら許されず、よりいっそう孤獨な戦いを強いられているのかもしれない。