“葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”
“葉子的離開,是風的追求,還是樹的不挽留”
yahoo智恵袋の中國語カテゴリーを見ていたら、たまたま、上記の中國語についての解説をお願いしますという質問が目についた。興味が湧いたので調べてみた。
中國のネットを検索すると、たくさん出てくる。ずいぶん好まれ流布しているらしい。原典を探したがどうしてもわからない。以前にも、ある言葉(詩)の出典を中國の検索サイトで探したことがあるのだが、これが出典かと思った物語が、最終的はどうやら先に言葉(詩)があってネット上の無名人がその詩からインスピレーションを得て想像した物語だとわかったことがある。ネットで流布した言葉や文章は出所をたどるのがとても難しい。
それはさておき、標題の中國語を直訳すると、
「葉っぱが木から離れたのは、風が追ったからか、それとも木が引き留めなかったからか」
となる。
ネット上ではこの言葉の多くは、男女の愛情関係を例えたものとして用いられている。
葉(女)はずっと木(男)とともにいたけれど、離れていってしまった、それは風(別の男性)が原因なのか、それとも木(彼)が引きとめようとしなかったからなのか…。葉を男に、木を女に例えてもかまわない。どちらにしろ、葉が木から離れるように男女が別れてしまうのは、風(がさらう)という第三者の存在の所以なのか、それとも相手を引き止めることのできなかった樹の側(戀人に去られた本人)に要因があるのだろうか、という命題を提示している。
男女の別れに関して、果たしてその原因が外在的なものであったのか內在的なものであったのか、そういう疑問を、葉と木と風の関係に例えて投げかけているのだ。
私がこの言葉のおもしろいと思うのは、これが、ただ男女の愛情関係だけでない哲學的な意味合いを含んでいるからだ。
ある出來事に対してある結果が生じたとき、その原因には內在的なものと外在的なものがある。表と裏、陰と陽、ふたつがひとつになって初めて世界が生じる。中國古來からのお得意の世界観だ。
同じような例えがある。卵からヒナが孵るには、卵を溫めるという外部の環境要因と、ヒナになる要素がもともと卵自體に內包されているということ、このふたつの條件がなければならない。外的要因と內的要因のふたつが揃って初めて卵から雛が孵る。
葉と木と風の例えはそれより少し曖昧だ。要因はどちらか一方であるかもしれないし、両方であるかもしれない、またはどちらでもない、定められた運命であると解説する人もいる。もしかしたら、そういう揺らぎを持った疑問文として提示されているところが、不確実性の時代である現代にこの言葉がウケる所以なのかもしれない。
…と、ここまで書いて、念のためもう一度日付を遡って検索してみた。すると、2004年の9月に書かれたある無名人のブログに初めてこの言葉が現れる。それ以前は全く検索に引っかかってこない。そして2005年以降検索ヒット數が突如と増える。
してみると、発祥はもしかしたらこの2004年9月の無名人のブログかもしれない。書かれているのは、風と葉と木の物語。“葉子的離開、是風的追求、還是樹的不挽留”は、この物語の題名である。
物語の內容は次回に!
風と葉と木の物語(2)へ