個人資料
正文

『わたしのきもち』

(2009-08-02 01:27:09) 下一個


 
  姪に10歳と9歳の姉妹がいる。背丈は同じくらいだけれど、姿形と性格はずいぶん違う。姉は私の両手ですっぽり包み込めるほど顔がきゅっと小さい。髪の毛がこわくて、ショートにしている。見た目も性格もボーイッシュだ。妹は顔も手足も赤ん坊のようにぽっちゃりとしている。バレエを習っているので、長く柔らかな黑髪をときどきお団子型にまとめて頭のてっぺんに乘せている。いかにもお嬢さんといった感じだ。
 先日、姉妹の母親が風邪気味で頭痛に悩まされていたので、二人を預かるために迎えに行った。妹は自分で準備萬端整え出発するばかりの狀態。母親に「××、持った?」と聞かれると、「あっ、忘れた。」と一言、自分でささっと取りに行く。姉はあれがない、これがない、と走り回っている。母親に怒られると、すぐさま文句を返す。いらだつ母親と真正麵から対決する。親子してギャーギャー大騒ぎだ。妹は觸らぬ神にたたりなし、とばかりに知らん顔を決め込む。
 では姉が人の気持ちを慮れない性質かというと、そんなことはなくて、感受性が鋭くすぐに感情移入するので同情心も人一倍強い。他人のことで心から喜んだり悲しんだりする。妹は大人のようによく気を使うし周囲への気配りを怠らない。でもいつも“いい子ちゃん”かというとそうでもなくて、口が立つので、姉が失敗したりわがままを言ったりするとすかさずそこを突いてくる。小姑のようにうるさい。姉はそれほど口が達者でないので言い返せず、思わず手が出てしまう。
 世間一般で言えば、社會的適応力が優れていると評価されるのは、妹の方かもしれない。けれどそのことと人の気持ちを理解しているかどうかということはまた別のことで、姉の方だっておそらく、人の気持ちをきちんと理解できる。でもそれ以上に彼女は自分の気持ちを大事に思っているのだ。妹の方は時々、見ていてあまりにも気を配りすぎるので、大丈夫かな?と思うときもあるけれど、聞くところによると意外と頑固で自分でこうと思ったことは絶対に譲らないという。
 そんなふうに二者二様で、それぞれの個性が強く出ているところを見ているととても愛らしく思う。
 
 ところで、NHK教育テレビの幼児向け番組に『わたしのきもち』という番組がある。「人とコミュニケートするときのコツ= “適切なやり方”を子どもたちに伝え、そのコミュニケーション力を高めることをねらいとする番組」だそうだ。
 偶然この番組を見たとき、なんだか変だと思った。遊び仲間の子が事情があって落ち込んでいるにもかかわらず、「遊ぼうよ、遊ぼうよ」と無神経にしつこく誘う男の子がいて、そういうやり方はだめだよ、という寸劇であった。先日再び見た時には、「人の表情をよく見てまねしよう。そしたら人の気持ちがわかるようになるよ。」と言っていた。
 言ってることに間違いはないので、どこがどう変なのだと聞かれるとなかなか上手く説明できない。
 大人のマナー教室ならそれは“技術”や“コツ”でいいと思う。社會ルールに則ってマニュアル的に學ぶ必要があるかもしれない。でも幼児が學ぶ人間としての基礎的なコミュニケーション力は“技術”なのだろうか?マニュアル的に“コツ”を學ぶことができるのだろうか?こういう場麵ではこう反応するなんて決まった“やり方”があるものだろうか?という疑問がひとつ。
 もうひとつは、『わたしのきもち』と題しながら、內容が「他人のきもち」を中心として構成されているんじゃないか、ということ。先に「私のきもち」があってそれが「他人のきもち」とぶつかるときどう折り合いをつけるかではなく、トラブルを回避するために先まわりして「他人のきもち」を読み取って、「私のきもち」を「他人のきもち」に沿わせようとする、この番組はそんな術を教えようとしている。番組の題名を『わたしのきもち』ではなく、『ひとのきもち』としたほうがふさわしいんじゃないだろうか。人間と社會に対する根本的な認識について、私の嗜好と相容れないものを感じる。


我々は誰しも、一人の例外もなく、最初は自分の心の孤獨の中で生きることから始め、それから與えられた材料と他者との交流を活用して、自分の必要に似合った外界を作る。
(サマセット・モーム『サミング・アップ』岩波文庫より)

 
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