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世界の相対性(2) -漱石と村上春樹の『1Q84』-

(2009-07-03 23:01:20) 下一個
 
 少し前に『ジャーナリスト漱石 発言集』牧村健一郎編(朝日文庫)を読んだ。
 そして先日、鴎外や漱石、村上春樹は世界の相対性を描いている、という友人からのメールを受け取って、そういえば、漱石のそのような世界観の一端を表している記述がその本の中にもあったなと思い出した。
 「好悪と優劣」と題されて明治43年、東京朝日新聞に掲載された文章である。

 …
 優劣の論議は一己の好悪を拡大して、これを出來る丈普遍的ならしめんとするの努力である。自己の好悪を直下に他に感染せしむるの方法なき故に、やむを得ず一先づ之を客観的に翻訳して、それを納得する他人に、自己同様の好悪を把捉せしむる方便である。二重に手間のかかる廻りくどい方法ではあるが、観賞の上に於ては各観賞家の間に以心伝心の法を欠く人間の所作として、手ぬるくとも仕方がないのである。

 好悪とは個々の主観である。そして優劣の論議とはその個々の主観を「できるだけ」普遍的にしようと推し進める努力であるという。「自分の主観を一返客観に翻訳して、其翻訳の力で、又もとの主観に似たあるものを人の頭に起こさせる手段」によって、人々は主観である好悪を普遍的に拡大しようとする。
 僕はこれが好きだ、私はこっちだ、それは嫌いだと、個人の好きずきを認めるということは、ともすれば、あれもありこれもあり、なんでもありで無數の世界の並列をそのまま認めることになり自己と他者の通路は斷たれてしまう。各々は各々の好みの世界に閉じこもり、その世界だけで充足する。“オタク”のように。世界の多義性を認めた上で「自他の感情に交通の途(みち)をつける」方策が講じられなくてはならない。

 …客観の弁説が作の優劣を決するとは言いながら、其実は既に一個の好悪が早く既に其優劣を決しているのである。好悪が優劣に変化せねばやまぬ程、(自己が多數に伝染せねばやまぬ程)主観が強ければこそ、客観的の導線も自然に流出するのである。
 個人の主観が個人的の製限に甘んぜずして、これを普通ならしめんとの活動を試みるのは、取も直さず、趣味に統一がなくてはならぬとの努力に外ならぬのである。自分の好悪は同時に甲の好悪であり、乙の好悪であり、併せて丙丁の好悪であり得べし、もしくは然あらざるべからずとの念力であって、此念力を果す方法が即ち誰にでも通用する客観的論弁の形になって発現するのである。

 ある事柄の優劣の論爭とは主観と主観との戦いである。どの主観が客観として普遍的な立場を獲得するか、それは主観を如何に「普通ならしめんと」するかその「活動」の「念力」にかかってくる。


 『1Q84』はまだ読み終わらないが、読んだところまででおおまかな捉え方をすれば、『1Q84』では2つの物語が交互に語られ、それが次第に交差し混じりあう。出會うことのなかった2人が近づいていく。物語は閉ざされていた彼と彼女の間に「交通の途(みち)をつける」ために語られる。
 世界はひとつの実體というわけでない。2つの月が同時に存在するのが現実である。
 空気からつむがれた糸によって「さなぎ(まゆ)」が作られる。人の想念は何もない場所から現実の世界を作り出すことができる。何もないところからつむぎだしたまゆの中で育まれた世界はやがてまゆを破り、現実の世界に出てきて力を持つようになる。外部との通路を持たない閉ざされた空間で熟成された世界は人の自由で自然な感情の発露を阻み心を歪める。その狹量な世界に対抗できるだけの別の「反リトル・ピープル的な力」を持った物語を生み出す試みが天吾とふかえりの小説內小説であり、また同時に『1Q84』という小説でもある。世界のバランスを保つために新しい物語を作り出さなければならない。

 村上春樹は、エルサレム賞授賞式のスピーチで「高く固い“壁”と、それにぶつかると割れてしまう“卵”があるとき、僕はいつも卵のそばにいる」と語った。『1Q84』は卵を守ろうというひとつの勢力を「普遍ならしめ」て現実の力と為すための「活動」のひとつであり、「念力」の表れであると思う。

 
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