『君について行こう~女房は宇宙をめざした』- 向井萬起男
(2009-06-08 19:42:44)
下一個
『君について行こう~女房は宇宙をめざした』と『女房が宇宙を飛んだ』向井萬起男著(講談社)を読んだ。
宇宙飛行士である妻をこよなく愛し、妻が宇宙飛行士であることをこよなく誇りに思う夫の気持ちが全編に溢れていてとても気持ちのよいエッセイである。しかしこの本はただ夫婦の愛情物語を書いただけでなく、同時に、実録!宇宙飛行、と名づけてもよいくらい、一人の日本人が宇宙飛行士に応募してから様々な訓練を経て宇宙に飛び出し無事帰還するまでの過程が具體的にわかりやすく描かれている。
向井千秋さんという人がどんなに努力家でどんなにたくましくて賢くて素晴らしい人かということがよくわかるが、夫である萬起男氏の能力もたいしたものだと思った。日本の宇宙開発事業団が宇宙飛行士を募集したとき萬起男氏も応募しようと思ったくらいだから、もともと宇宙飛行に対する萬起男氏の興味や知識も並大抵のものではない。彼獨特の子どものような好奇心、豊かな知識、病理醫という職業柄かどうか鋭い観察力と的確な表現力に支えられた筆致はこの本をエッセイとしてだけでなくドキュメンタリーとしても成り立たせている。
今まで宇宙やスペースシャトルにほとんど興味がなかった私だが、この本のおかげで多少なりとも宇宙飛行に対する知識と興味が増したと思う。もう10~15年も前の出版物だ。もっと早く読んでいれば當時の社會の高揚感もリアルタイムで感じられてよかったと後悔した。
2冊の本から印象に殘った部分をひとつずつ挙げておこう。
ひとつめは、NASAの家族支援プログラムについて。乘組員が安心して任務の遂行に全力を傾けられるように、NASAはその家族の麵倒をいろいろと見る。
著者の萬起男氏も、乘組員の家族として家族支援プログラムを受けることになるわけだが、彼がここで疑問に感じたのは「直係家族」という分類であった。「直係家族」とはその他の家族と區別され特別な扱いを受ける家族である。この「直係家族」という分類に含まれるのは、乘組員の配偶者と子供および子供の配偶者だけ。両親、兄弟姉妹は含まれない。両親、兄弟姉妹は乘組員の親しい友人たちと一緒に「拡大家族」という一段下の枠に分類されるのである。
日本人である萬起男氏は、直係家族の中に両親が含まれないということをとても不思議に思う。これは日米の文化の差なのだろうか。そこで、このことをいろんな人に質問してみる。多くの人が、アメリカ人の家族は日本と違って夫婦中心だから、と言う。彼はこの答えに納得しない。日頃の生活が夫婦中心だからといって、両親が夫婦より大切でないということになるだろうか?
しかし、最後にある乘組員の妻がこう答える。
直係家族に両親が含まれないのは、NASAの費用負擔の問題と、アメリカでは離婚が多いから両親という枠が複雑になるという実際的な問題からであって、心の問題ではない。根本的には両親を大事に思う點について、日米に違いはないと思う。
そして萬起男氏は、この答えが正しいかどうかはわからないがこれなら納得できる、と思うのであった。
さて、この問題について、私はちょっと違うことを思った。
宇宙に飛び立つことは大変危険なことで、打ち上げ直前の家族との麵會の様子はまるで今生の別れを告げるかのような厳かな雰囲気が漂っていた。打ち上げられたばかりのスペースシャトルが粉々になるという不幸な事故も、実際、あった。それを目の前で見ていた家族の心境はいかばかりであったろうと思う。その時の家族の衝撃は、例え配偶者であろうと両親であろうと、むろん違いがあるものではないが、その光景を想像したとき私が思い至ったのは、両親が(成人した)子を失うときはその子と一緒に歩んできたそれまでの過去を瞬時に失い、妻が夫を或いは夫が妻を失うときは、これからそのパートナーと歩むはずであった未來を失うのではないかということである。
宇宙飛行士が“かっこいい”のは、大きな危険を冒しながら人類の未來と夢を乘せて宇宙に飛び立つという任務を擔っているからではなかろうか。宇宙飛行というプロジェクトすべては未來へのベクトルによって突き動かされているのではないか。
両親には子である乘組員と育んできた過去の歴史と記憶がある。しかし、乘組員が無事帰還すれば共に未來を育んでいくのは主に配偶者とその子供たちである。両親と配偶者に違いがあるとしたら、もしかしたらそういう點ではないかと思った。そしてNASAが配偶者と子供を特別扱いするのは、スペースシャトルの打ち上げ自體が“未來をつくる”プロジェクトであることと関係があるのかもしれない。この考えが正しいかどうかわからないが、そんなふうに思った。
もうひとつは、向井千秋さんが宇宙飛行で一番感動したことは何か、ということ。
向井さんは、多くの人から、宇宙から地球を眺めて感動したでしょう、と聞かれた。しかし、もちろんその光景はすばらしかったけれども、それは宇宙に行く前も映像や寫真などで何度も見たことのある光景だった。だから
「ああ、やっぱり美しいという感動はあったけど、意外な感じはしなかった。」
彼女にとって一番の驚きであり感動の體験は地球に戻ったときのことで、それは地球の重力と再遭遇し地球には重力があるんだと體で知ったことだそうだ。
「これに比べたら、宇宙から地球を見た感動なんて小さいわね。なんたって、地球の重力。」
だから彼女は地球に戻ってから、つい何度も鉛筆やハンドバックをわざと床に落としたり、本のページを持ち上げては離してみたりして、周囲から奇異な目で見られる。テーブルにワインのグラスを置くときも、気持ちを一所懸命に集中してそっと置くように努力しなければならなかった。
帰還後3日目。妻は夫に言う。
「ねぇ、マキオちゃん、私、とっても寂しいんだ…」
「うん?何が?」
「私の體は、次第に次第に地球の重力を感じなくなってきてるのよ。宇宙飛行をしたおかげで地球の重力を體で実感できるようになって、とっても麵白かったのになぁ。せっかく、地球には重力があるっていうことの麵白さが初めてわかって嬉しかったのに、地球に戻って3日経ったら、もう、地球の重力をそれほど感じなくなってしまってるの。……もうすぐ、宇宙旅行をする前と同じ狀態に戻るなんて、私、とっても寂しいんだ。」
そして次の日の夜、妻はポツリと言った。
「私の體は、もう、まったく重力を感じなくなってしまった。」
それで思い出したことがある。話はずいぶん飛躍してしまうけれど、以前、精神科醫の河合隼雄さんの本を読んでいたとき、幻聴に悩む患者のことが書かれていた。河合さんが診るうちに、幻聴は全くなくなった。それで、患者にどんな感じかと聞くと、
「なんか、年來の友人を失ったような心境です。」
他にも同じように幻聴に悩まされている芸術家が來た。そこで、河合さんは言う。
「幻聴を取ろうと思えば取ることはできるでしょう。ただ、幻聴はなくなったけど、それによってあなたの芸術家としての獨創性もなくなってしまったということになる可能性もありますよ。」
すると數日後に、「よくよく考えてみましたが、もう少しこいつ(幻聴)とつきあってみることにしました」という連絡があった。(『人の心はどこまでわかるか』講談社+α新書)
重力と幻聴は、実際に“ある”か“ない”かといった點で、全然違う。だけど、本人がそれがそこに“ある”と“感じる”ということと、日常生活の邪魔になる、けれどその感覚を失ってしまったら寂しくなる、という點で私の連想の網に引っかかったようだ。
向井千秋さんは、宇宙へ行ってそこから行く前と同じ世界に帰ってきたはずなのに、以前とは違った世界を“感じる”ようになった。
私たちは日常、多くの事柄を當たり前のこととして受け入れて気にも留めなくなっている。そういうある種の鈍感さというものを必要とするのが、すなわち“普通に生活をする”ということではないだろうか。
宇宙から帰ってくるという特殊な體験をしなくても、普通の人が感じないことを感じたりする人たちはいる。そしてそういう人たちはそのために普通の生活を送ることに不便や困難を抱えているのだろうと思った。