先日たまたま、『今夜は最高』という古いテレビ番組を見ていたら、岡林信康というフォーク歌手がしゃべっていた。一時期、4年間ほど、戸數15軒の山奧の村で暮らしていたそうだ。
ある時、村の寄り合いがあって、川に架かる橋が古くなってぼろぼろなのでなんとかしたいが、橋の架け替えを村から陳情するとその費用をいくらか負擔しなければならない、台風などの災害によって自然に落ちたとなると、市が全額出して架けてくれる、それでどうしようと。
村のマンジロウさんの言うには、大水が出たとき橋げたをのこぎりで切ったらどうだろう?すると、チョウさんが、いやいや、前にそれを隣村がやったらばれてお縄になったぞ、雪かきの雪を橋の上に集めて重みで落としたらどうだ?すると、今度はツナちゃんが、まてまて、俺の家は川向こうだ、雪を積み上げたら通れないじゃないかと。
本気の議論なのか、半分冗談なのか。おもしろい話だと思った。
「上に政策あれば、下に対策あり」とは中國の言葉だが、どこの國でも庶民の知恵と強さというのはこういうところにあるのかもしれない。
しかし、そういう庶民の生活レベルから生み出される小さな共同體の知恵が日本では時とともに失われていっているような気がする。かつて村社會が擔ってきた役割、個人の利益が地域の利益と一體となることが可能な範囲の小さな共同體、そういう地域のルールや利益は時折、上のほうの組織のそれと相反するかもしれない。法とは必ずしも我々を守るものではない。そういう時、如何に地域の要求を通し個々の生活上の便利を守るか、そこから庶民の知恵と工夫と力が生まれるのだと思う。
ところが、今の日本は、國全體がまるで一つの大きな村のようになって國民全體を丸抱えに麵倒みようとしているように見える。
今私たちが生きている社會は昔と比べて価値観が多様化していると、私は當然のように思っていた。けれど、日本という國全體がまるで一つの大きな村のようだと感じるのはどうしてだろうと自問自答してみると、価値観の多様化とは逆に日本全體が均質化しているという感覚から來ているのだと気がついた。日本全國どこに住んでも、人々は同じ法のもとで同じ教育を受け、同じ電波を受け、同じものを著て、同じものを食べる。便利で豊かな近代的生活とはつまりは合理的、物質的な生活のことで、それを経済的に裏打ちするのは規格化と大量生産だ。
文明の力によって世界はいやおうなく均質化される。とすると、均質化された社會に育つ人々の価値観も自然と均質化し、異質なものに対する対応力や許容力は減少していくのではなかろうか。
思考が本題から外れてしまった…。