楊逸の『金魚生活』(文學界9月號)を読んだ。芥川賞を取った『時の滲む朝』よりずっと麵白かった。受賞以前の作品である『ワンちゃん』や『老処女』と同じく一中國人女性の人生や生活に視點を據えた物語こそ、この作家にとって本領発揮できる舞台であると思う。
主人公は玉玲という五十一歳の中國人女性で、中國の東北地方に住み、レストランで働いている。夫とは8年前に死別、一人娘は日本に留學、就職、そして留學生仲間と結婚して日本で暮らす。玉玲は夫の死後、娘に內緒で、夫の生前から家族ぐるみの付き合いがあった周淋という男性と付き合い始め、既に同棲している。
物語は玉玲がレストランの水槽に泳ぐ高価な金魚の世話をする場麵から始まり、彼女が娘の出産のために初めて日本に渡航するという出來事が中心となる。
『ワンちゃん』もそうだったのだが、日本人の読者にとっての彼女の小説の麵白さというのは、日本人とは異なる価値観や原理によって行動する登場人物によるところが多い。日本人の価値観に則すればちょっと引っかかるような行動、考え方と思われるところを、楊逸の小説の中の登場人物たちはまるで魚が水の中を泳ぐようにごく自然に披露している。
例えば、玉玲は娘の出産を手伝うために日本に行くのだが、ビザに期限があるので半年で帰國しなければならないし、娘は早々に仕事に復帰する。そこで孫の麵倒を見てもらいたい娘は母に対して、日本人と再婚して日本に住んだらどうかと提案するのだ。母も産まれたばかりの可愛い孫を抱いていると、この子と別れるのは忍びなく、娘の勧めに従ってお見合いを繰り返す。
文學界9月號の楊逸と高樹のぶ子の対談の中で、高樹のぶ子は、日本の女性と中國の女性の違いについて、こう語っている。
高樹:…わかりやすく言うと、女が男にアプローチするとき、日本の場合は情に訴えるところから始まると思うんだけど、中國の女性はそんなことしないよね。
楊:しないです。
高樹:情が消えて何が立ち上がってくるかというと、生命力と損得(笑)。
楊:アピールの仕方の違いですね。
高樹:損得を主張することが価値観として肯定されているのよね。
『金魚生活』の中でも、娘が母に再婚を勧め母もその気になるのは損得勘定からであり、身內においてそういう損得勘定を前麵に押し出しすことが特に遠慮されることでもなく何でもないこととして語られている。
日本の読者は登場人物のこういう功利的な考え方、生き方に新鮮さを感じ衝撃を受けるが、物語を読み進めていくと玉玲のお見合いする日本人とて負けず劣らず打算的であることが見えてくる。田舎で寢たきりになっている父の世話をお願いするために見合いの場に現れる娘二人がいる。その二人の提示する月3萬円という金額に対して、玉玲の娘が「馬鹿にしている」と憤慨するところがまたユーモラスでおもしろい。
考えてみると、人が生きていくうえで人との関係の間で損得勘定というものが働くのは當然のことである。
玉玲は若い頃から美人で、結婚に際しても幾人かの候補の中から、容貌や性格よりも將來性を重視して亡くなった夫を選んだ。彼女の目に狂いはなく夫は社會の変化を察知して機敏に動く生活力があった。そのため彼女の家庭は庶民の中では裕福なほうで、娘にも留學を実現させることができた。それなのに夫は早くに亡くなってしまい、今彼女が同棲しているのは、昔候補の中にいて選ばれなかった男である。彼は夫とは反対に上手く立ち回ることが出來ず経済的に苦しい生活を送り、とうとう妻にも逃げられてしまっていた。玉玲は寂しさから彼を拒むことができず一緒になった。豊かな生活を手に入れるために將來性のある男と結婚すること、獨り身の寂しさと不安から身近な男と一緒になること、これはどこにでもあるごく普通の感覚で、私たちは違和感なく共感する。
外國人が主人公でありかつ日本が舞台である物語を読むということは、文化の違い、価値観の違いの明白さに衝撃を受け新鮮に感じる部分と、文化の違いにかかわりなく人間の根本にあるものが見えてくるという部分がある。
高樹のぶ子が正確に言っているように、中國人は<損得を主張することが価値観として肯定されている>、それに対し日本人は損得を主張することに対して何かしら後ろめたさがある。けれど、両者とも等しく損得で動く人間であることに変わりはない。
しかし、かといって人は果たして損得だけで動くものだろうか。
玉玲が最後に見合いした相手は、話も通じず心も通わないそれまでの相手と違って、かたことながら中國語もしゃべれるし、漢詩にも造詣が深い教養のある紳士だった。
<牀前明月光 疑是地上霜 挙頭望明月 低頭思故郷>
李白の詩で二人の會話に花が咲いた。彼女はこの紳士と結婚した後の暮らしを思い浮かべる。しかし同じ詩を吟じ、同じ月を探しても、窓の外の海に月は見えない。
<花間一壷酒 獨酌無相親>
紳士は獨り身の寂しさをかこち、彼女もその寂しさに共感を覚える。しかしその時、彼女の脳裏に浮かんだのは中國で待つ周淋の姿であった。知音と出會ったように喜ぶ紳士の心をよそに、玉玲は<月下獨酌>の続きをつぶやきながら周淋のことを思って溢れる涙を止めることができない。
玉玲はレストランの水槽で死にそうになった金魚を自宅に持ち帰って大寶(大きな寶)と名づけ大切に育てていた。中國を発つとき元気がなかったその金魚は、周淋の手厚い世話によってすっかり元気になったという。
玉玲の働くレストランの水槽に泳ぐ金魚たちはその周りの人間たちにとってある共通の意味を持っていた。金魚を商品として卸す金魚屋の親父、金魚を幸運の象徴とみなしその生き死にと店の盛衰を重ねる主人、死なせたら給料に響くため必死に金魚の世話をする玉玲、店の大きな水槽できらびやかに泳ぐ金魚たちの生き死には周囲の人間それぞれの経済的な思惑に関係していた。しかし玉玲が家に持って帰った大寶は違う。大寶は玉玲の寂しさを紛らわしてくれた。辛いときの話し相手になった。彼女と生活を共にしてきた。そうした大寶を死なせたくないという玉玲の意図を汲んで彼女のために必死に大寶の世話をしたのは周淋である。
日本のアパートの四畳半に閉じこもっているとき、玉玲はまるで自分が狹い水槽に閉じ込められた大寶のようだと思う。彼女に限らず、人は皆結局は水槽という一定の環境の中で泳ぐ金魚なのかもしれない。大寶と同じように玉玲自身が活き活きと生きられる場所、彼女を元気に泳がせてくれる場所、それが果たしてどこであるのか、彼女は気づいたのだった。
玉玲と、彼女の娘と同じアパートに住むスギノさん、それから近くのペットショップの主人との間には人の心をほっとさせるようなほのぼのとした交流がある。それは彼らが損得抜きでお天気や金魚など目の前にあって共有できる題材によって繋がっているからだ。日常のなんでもない會話を交わすこと、食事を共にすること、酒を酌み交わすこと、寂しさを共に埋めること、そういった日常生活の繰り返しが情を生み、人は情で繋がる。損得で動くのと同じく、情に動くのもまた人の変わらぬ営みであろう。
『金魚生活』が損得を主張する中國人が情に帰る物語だとすると、この物語は過分に功利に走る昨今の中國人社會に対する抵抗と受けとめることもできるかもしれない。
読後感のよい麵白い小説であった。
いつもコメントをいただき、うれしく思います。
ありがとう!!
私も魚さんのブログを読んでるんだけど、難しくてわからないことが多い^^;
だから、なかなかコメントできなくて、ごめんなさい。
我也經常訪問你的博客,看你的文章,但我的漢語讀解能力有限製,不好意思沒有寫給你評論。
もっと勉強します。
はは、小説の感想だから、まずはその小説を読まないとわからないかも~。
I have to use the dictionary~~~~~~~~