映畫『猟人日記』(監督:デヴィッド・マッケンジー/2003年/英・仏)を見た。
概要はこちらを參考に。↓
http://www.elephant-picture.jp/ryojin-nikki/intro.html
1950年代のイギリスの運河のゆるやかな流れがとても美しい。その美しい情景の中の人間模様に靜かだが何か不気味なものが隠されているような気がして、最後まで目が離せなかった。
解説や批評では、男が人妻を誘惑すると書いてあることが多かったが、私はそうだろうか?と思った。現実でもそうだが、男女間の誘惑というのはどちらから、というのがわかりにくい。微妙なサインのやり取りで、阿吽の呼吸が生まれるものである。
原題は『YOUNG ADAM』。アダムとイヴの物語を引き合いに出すならば、神の言いつけに背いてアダムに知恵の樹の実を食べるよう唆すのはイヴである。しかし、その後、神に、知恵の樹の実を食べたのか、と詰問されたとき、アダムは、食べたのはイヴだけだと答える。これがアダムが最初に犯した罪である。
猟人日記の人妻たちは、自分が罪を犯してることにおそらく自覚的である。彼女たちは、やり切れない生活に澱んでいる澱のようなものから逃れるために、罪を罪と自覚しながらそれぞれがそれぞれの事情によって、主人公の男、ジョーと関係を持つ。ところがジョーはどうだろうか。彼は罪に無自覚のまま、いや、それどころか過去のある出來事に対する罪の意識から逃れるために、女たちと関係する。
映畫を見た翌日、私はふと、芥川龍之介の『羅生門』を思い出した。主人に暇を出された下人が、行くあてもないまま羅生門の下で雨宿りをする。下人はこれからの生活をどうにかするためには、「手段を選んでいるいとまはない」と思う。けれど「盜人になるより外に仕方がないという事を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいた」。下人はともかくも夜を明かそうと門の上の樓へ上る。そこで、死人の髪を抜きとる老婆に出會う。當時、羅生門には引き取り手のない死人が多く捨てられていた。
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下人には、勿論、何故老婆が死人の髪の毛を抜くかわからなかった。従って合理的には、それを善悪の何れに片づけてよいか知らなかった。しかし下人にとっては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髪の毛を抜くという事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。
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下人は太刀を抜いて老婆に突きつけ、何をしていたのだ、と問いただす。老婆は、死人の髪を抜いて鬘にするのだと言う。自分が今髪を抜いていたこの女とて、生前には蛇を幹魚だと偽って売っていた。それも生きるために仕方がなくしたことである。
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されば、今又、わしのしていた事も悪いこととは思わぬぞよ。これとてもやはりせねば、餓死をするじゃて、仕方がなくする事じゃわいの。じゃて、その仕方ないことを、よく知っていたこの女は、大方わしのする事も大目に見てくれるであろ
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それを聞いた下人の心にある勇気が生まれる。下人は、老婆の襟首をつかみながら、「では、己が引剝をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死をする體なのだ。」と言い、すばやく老婆を著物を剝ぎ取り、蹴倒し、急な梯子を駆け下りていった。
下人は職を失ったというものの、まだ若く力もあり、餓死の切実な危険に向き合ったこともない。それに対し老婆はぎりぎりの情況で生き抜かなければならない生活をおそらくは短くない間、続けてきている。また、老婆が奪ったのは死人からであり、下人は生きている老婆を足蹴にし奪った。
下人は、自分が理解できない行動をしている老婆を見た途端、その不気味さと己の皮相な正義感から太刀を抜き、さて、その事情、老婆の言い草を聞くやいなや、今度は豹変しこれ幸いと老婆の論理から盜みを正當化するための勇気を得る。
ジョーもまたこの下人と同じである。ジョーと、ジョーと関係を持つ女たちとは、同じ行為をしていても、その意味が全く異なっていることに、彼は気づかない。気づかないまま、女の生活を、そして最終的には、ある善良な家族の生活をも破壊する。読者や観客には見える老婆や女たちのリアルで真摯な生活や人生が、下人やジョーには見えていないのである。
猟人日記は最後、ジョーが、ずっと持ち続けていた昔の戀人キャシーから貰った鏡を河に投げ捨て、どこかへ姿をくらます場麵で終わる。鏡には、「自分を見て/私を想って/愛をこめて.C」と刻まれていた。
それは羅生門の下人が、「唯、黑洞々(こくとうとう)たる夜」の闇に消えていったのと似ている。
夜の底へ消えていった「下人の行方は、誰も知らない」。