2008 (142)
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2010 (94)
2011 (140)
先日テレビで、三輪明宏が、少年が駅のホームから人を突き落として死なせた事件に関して、想像力を育てないからいけない、というようなことを言っていた。
社會のしくみが整い、便利で規格化された世の中になればなるほど、規格に合った人間を育てるのが「教育」というものであるように見受けられる(そうでなければ、秩序ある安定した社會が脅かされるのだから)。國民一人一人が健康で安全な生活を送ることができるように國家が配慮する、それが現代の國家の第一義の目的であるならば、國家が國民の生活に隅々まで目を配り管理することが必要であって、そういうシステムに組み込まれた機関によって行われる教育で想像力を養うことはひどく困難なことではないだろうかと思う。想像力を養うこととは、規定に沿った考え方から常に逸脫する思考を育てることなのだから。
國家として安全で秩序ある豊かな國家を形成しようとすることと、個人としての人生の豊かさを養うこととは根本的に相容れないものなのかもしれない。
自分とは関係のない人間に対して生命としての繋がりを感じないような感覚、三輪さんの言うところの「想像力のない人間」の方が、実は集団や組織にとっては都合がいいこともある。
例えば、もし他人も自分と同じ命を持っていて、自分の命を大事にするように他人の命も大事にしよう、という考え方が絶対的な真理であってそれを推奨するのならば、戦爭が起こった時、どういう論理で國民を戦地に赴かせることができるだろう。どうして人を殺せと命じることができるのだろう。ああ、そうだ、人を殺せと命じるだけではない、國家は、自身の國民に対しても、その命を捨てに行きなさい、と命じることができるのだ。この時、権力への服従は、個人の大切な命をも上回る絶対的なものでなくてはならないし、個人の命に対しては鈍感にならなければならない。
國家が教育を管理するというのは、そういう可能性も含めて、管理社會にとって管理しやすい人間を育てるという意味を持っているのだと思う。