連休の間に集まった5人の子供たちも、今週は散り散りになって、靜寂が戻った。一番小さな3歳の女の子はおしゃべりで、大きな聲でひっきりなしにしゃべっていた。顔をほとんどくっつけんばかりに近づけて、にこっと笑って甘い聲で「XXちゃん、だ~いすき」などと言う。女の子というのは幼い頃から本能的に媚態を備えているのだろうか。
私もその甘い聲を聞き柔らかな肌に觸れるのがとても心地よく、しょっちゅう抱きしめていた。連休が終わり、腕の中から彼女の溫もりがすっぽりと抜け落ちてしまったことを寂しく思う一方で、戻ってきた靜寂にほっと一息ついている。
私自身は4人兄弟で、幼い頃は両親、祖父母、獨身の叔父叔母と10人が一つ屋根の下に住んでいた。毎日がこの連休以上の喧騒であった。
アイザック・アシモフという作家のSF小説が好きで、最近、本棚の2冊(『鋼鉄都市』と『夜明けのロボット』)を読み返した。小説の中には、スペーサーと呼ばれる地球から宇宙に殖民した植民者たちの末裔が登場する。彼らは數十の惑星に別れ住み、それぞれ惑星単位の國家を建設している。病原菌を排除し、三百年以上の長壽を実現し、身の回りのことは全部ロボットに任せ、個人個人の人間にとって最大限に快適な環境を整えた。人口は抑製され、木々や湖のある広々とした領土に広々とした住まいを確保し、子供は親とは別に専門の施設で養育される。
一方、地球には、スペーサーたちが地球からの移民を受け入れなくなり、自力では宇宙を開拓できない何十億という人々が肩を寄せ合いひしめき合って暮らしている。すべての人が地下の集合住宅に住み、配給されたチケットを持って共同食堂や共同浴場に通う。そしてそれぞれの人間はそれぞれの働きによって階級が定められ、生活上受けることのできる様々な権利が等級別に製限されている。
物語の舞台は、個人の幸福を追求し実現したスペーサーの世界と、何十億という人類を限られた資源によって養うために個人の生活に製限を設ける地球と、この対比的な二つの世界であり、そして物語の未來は、スペーサーの衰退と、新しい惑星を開拓することを決意する地球人の繁栄である。
個人の幸福を追求した末が、その世界全體の衰退をもたらすというパラドックスが麵白い。スペーサーの世界では人間関係が希薄になり、気力や好奇心、冒険心が衰えてくるのである。もちろんこれは架空の物語なのだから、実際にそんなふうな理屈が通るものかどうかはわからない。
けれど、連休中の喧騒とその後の靜寂の中、本を読んでいてふと思ったのは、人間が狹い範囲の中でぶつかり合って暮らしていくことがもたらす恵みである。その恵みとは豊かで雑多な感情の交流を通して培われる人間への理解だと思われる。ひっきりなしにしゃべってまとわりついて私を邪魔するこの子がどんな時に笑って、どんな時に泣いて、どんなことに喜んでどんなことに怒るのか、病気の祖母がいつも黙って布団の中で微笑んでいたこと、祖父がぶつぶつと母の悪口を言い、母が悲しい顔をしていたこと、叔父や叔母の戀愛話、両親の喧嘩、兄弟の喧嘩、様々な喧騒が人間の感情の機微を、それから人間の感情の溫かさを物語る。
そして、私が今、靜寂の方をより愛するのは、もしかしたら衰退の兆しなのかもしれないと思う。