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悲しむ人、困る人

(2007-11-14 03:55:27) 下一個

  私が死んだら、悲しむ人はいるかもしれないが、困る人はおそらくいないであろう。人の命に重さの違いはないと言うけれど、偉大な哲學者や文學者、科學者、一國の首相、大統領など社會に影響力を與える者の死と、一介の市民の死とでは、社會にとっての損失という意味では、その重さに大きな違いがある。
 毎日の散歩コースの途中、橋の下をくぐると、傍らにホームレスの宿がある。青いビニールシートで囲った簡易な小屋があり、その前にはきれいな自転車が一台、地麵には焦げ後のついた石の竈がある。カシャンカシャンと空き缶をつぶす音が夕闇に響く。寢る場所と、食べるものと、移動の足と、労働と。そこにはシンプルな生の形態がある。
 彼が死んだら悲しむ人はいるだろうか。

     如果我死了可能有人會悲痛,但恐怕沒有人會為難。雖然人們說人的生命沒有輕重的差別,但從社會的損失這個觀點來看,還是有很大的差別。與偉大的哲學家、文學家、科學家或一個國家領導等具有社會影響力的人的逝世比起來,一個普通的市民的逝世畢竟還是微不足道的。
     我每天去散步的路線中會從橋下走過,有個流浪者就在那裏安家。那兒有個用藍色的塑料布圍成的簡易小屋, 前麵有 一輛 幹淨的 自行車,傍邊地麵上有個燒焦的石灶。 還能聽見壓碎空鐵罐的哢嚓哢嚓聲。睡覺的地方、吃的東西、交通工具、還有勞動,就以這麽很簡單的形態生活著。
     如他死了,有沒有人悲痛呢。

[此帖子已經被作者 2007-11-20 編輯過]

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