あんまり暑いので朝から図書館に出かけた。読書三昧も久々のこと。大きなガラス窓の外は灼熱の太陽、內はひんやりと心地よい。読むことに倦めば、顔を上げてガラスの向こうに立ち並ぶ木々の緑で目を癒す。空調は強すぎもせず弱すぎもせず、ちょうどいい具合に調整されていたけれど、それでも2時間もいると體の芯が冷えてくる。晝食がてら隣の日本庭園のある公園まで出ることにした。
外に出た途端、たちまち熱い空気が私を取り囲み、冷えた體を暖めてくれた。藤棚の下のベンチは満員だったので東屋に入ると、年配の男性が一人、ぴくりともせず眠り込んでいた。東屋は池の上に突き出すように建っていて、ぐるりと三方に簡易ベッドほどの幅がある手すりつきのベンチを備えている。木でできたベンチの座麵はまるで古い日本家屋の回り廊下のようにすべすべしていて気持ちよく、私は靴を脫いで上がりこみ、屋根を支える細い柱にもたれかかって、きちんと手入れされた庭園を眺めながら、かばんから取り出したパンを頬張る。
すぐ後に、若い母親二人が2,3歳の男の子を二人連れてやってきた。一人の母親は赤ん坊を入れた布を胸の前に斜めにぶら下げている。寢ていた男性はむくりと起き上がり、座りなおした。それから製服姿の女子高生が二人來て、寢ていた男性は去っていった。子供たちははしゃぎながら池にパンくずを放っている。
「かめ、かめ、大きいかめだよ。」
女子高生はままごとのようなお弁當箱を手に、明るいトーンでひっきりなしにしゃべっている。
見知らぬ人々が、穏やかでやわらかな空気を醸しだしている。なんだかとても懐かしい感じがした。長い間、忘れていた感覚が蘇ってきた。
ずっと昔、よく一人旅をした。若くて怖いもの見たさの好奇心でいっぱいで、出かける前には緊張して心臓はどきどきするし手は震えるほどなのに、それでも出かけた。自分が何を求めているかも知らずに、憑かれるようにあちこちを歩き回った。雑踏の中で、観光地で、ホテルの中で、列車の中で、見知らぬ人々の見知らぬ言葉に耳を傾けるのが好きだった。例え言葉はわからなくても、そして例え何も言葉を聞かなくとも、表情や動作から繰り出される人々の人生の一場麵を垣間見るのがとても好きだった。そこでは私は主人公でもなく観客でもない。舞台の端に立つセリフのない端役の一人。視線も交わさず言葉も交わさない、同じ舞台に一時立っている、という、ただそれだけの関係。もしひょんなことから突然舞台の中央に引っ張り出されることでもあろうなら、私は恥ずかしさでどうしていいかわからなくなって、ろくな演技も出來ずに馬鹿みたいにただ立ち盡くすだろう。端役が性に合ってるらしい。
昔、私が盛んに一人旅に出たのは、さまざまな舞台の端役を演じたいがためだったのかもしれない。
東屋の一角で、パンを齧り、子供たちの楽しげな聲と女子高生のさえずりを聞きながら、そんなことを思った。