脫水症狀
(2007-07-01 02:19:00)
下一個
先日、下痢と発熱から脫水症狀を起こし病院で點滴を受けた。 脫水症狀なんて初めてで、自分の體に何が起こってるのかわからなかった。手足に力が入らない。頭からの指令に體がついていかない。體に鉛が埋め込まれているかのように、一挙手一投足が重く鈍い。風邪で高熱を出したことは何度もあるけれど、そういう熱によるだるさとは違う。熱のあるときも確かに動くのが辛いけれど、體の具合の悪さを頭がきちんと認識して、體も頭も共に病気と闘おうと一致団結している。脫水症狀のときは、頭も決してクリアではないけれど、體の自由の利かなさが意識の不鮮明さを上まわるために、體と頭が切り離されてしまったかのように感じる。
私はもともと病院嫌いで、よほどのことがない限り自ら病院には足を運ばないのだが、今回は、病院へ行きたい、と強く思った。
病院で尿検査の後すぐに「脫水症狀ですね」と斷言され、點滴を始めた。
點滴を始めて10分と経たないうちに、ぼやけていた目のピントが急に合い始めたかのように、寢ている病院の部屋の景色がすっと鮮明になった。頭の中の霧が一気に晴れていく。気持ちが穏やかになっていく。満たされていく喜び。幸福感に包まれながら、うとうととする。80近い年齢と思われるかくしゃくとした看護婦が時々様子を見に來て、うつらうつらしている私に聲をかける。はっきりした優しげな聲が耳に心地よい。
「大丈夫ですか?何かあったら呼んで下さいね。」
「あ、まだですね。量が少なくなると點滴の速度が落ちるから。」
「そろそろかな?」
「終わったわね。」
體はすっかり軽くなった。手足がスムーズに動く。意識がはっきりして気分爽快。世界は再び元の世界へと戻った。
脫水症狀が現れる前、腹痛と熱に苦しめられているときはまだ餘裕があった。じっとしているだけだからとりとめもないことをいろいろ考えた。ひどい痛みが一生続くなら死んだほうがましかもしれないとか、もし不治の病にかかったら病気と闘うよりも安楽死を選ぶかもしれないとか、自分は絶対延命措置を拒否しようとか、生とはただ生きるだけではなくその質が問題なのだとか。その延長で今思うのは、本人にとってみれば、癒されることのない痛みの中で病と闘いながら生き続けるより、痛みを緩和しつつ穏やかな環境の下で生を終えるのがいいということ。ただ一方で、本人の周囲には、どんな形でもいいから生きていて欲しいと願う人たちもいる。多分、ひとりの人間の生というものは、その人ひとりだけのものではないのだろう。
たかが風邪でずいぶん大げさな話になってしまった。