母
(2007-07-20 02:50:17)
下一個
夕食後、母と妹はダイニングテーブルに、私はテーブルに背を向けて洗い物をしていた。その前日、母は小學生の子供を持つ妹に付き合って何か教育に関する講演を聞きに行っていたので、二人はひとしきり子育てについて話していた。母はしみじみと、やっぱり子供は押さえつけるばかりじゃなくて、のびのびとさせてあげるべきだ、と言った。子供の目線に立って、餘裕を持ってゆっくりと子供の話を聞いてあげることが大切だと思うよ、自分のときはそんなふうじゃなかった、自分がああしたいこうしたい、って、自分がやりたいことをやってた気がする、子供と一緒に考えるとか、子供の気持ちを汲むとかそういうところが全然なかったな、と言い、最後に、
「子育てに失敗したと思う。」
と言った。 妹はすぐに、
「で、私たちが失敗した結果ってわけ?ははは」
と軽く笑ってかわした。
私は黙って洗い物を続けながら、ちくりと胸が痛んだ。 母は少し酔っていた。
次の日、やはり3人で居間でテレビを見ていた合間に、突然母が聞いた。
「生まれ変わったら、次はどんな職業に就きたい?どんなことをしたい?」
私が真っ先に、農業、と答え、妹は、考えあぐねていた。
母はキャリアウーマンになりたい、と言った。たくさんのことを一所懸命勉強して、バリバリ働く女性になりたい、と。英語ももっと勉強すべきだった、と。それを聞いた妹が、英語なんて勉強しても全然使わないじゃん、と言うと、母は
「だから、勉強して海外に行くような仕事とかに就くんじゃないの。」
と言った。
ここ數日、母の胸に去來しているものは何なのだろう。私にとって母とともに歩んだ私の人生は充実したものとして存在してる。私はそれを肯定的に捉えている。そうした私の気持ちと、母の気持ちと、微妙にずれていることにふと気付き、少し恐ろしくなった。
以前、三つ子の魂が誌向するものは大人になっても変わらないのだと書いた。大人になっても変わらないどころか、それは來世でも変わらないのではないだろうか。実際の生活の形がどうであれ、ある一つの魂の誌向というのは特定の方向に向かっている。母のキャリアウーマンになりたいという來世への誌向と、子供とじっくり向き合うというべきだったという後悔、この二つは私から見れば相容れないもののように思える。矛盾した感情を合わせ持つのが人間なのだと言ってしまえばそれまでなのだけれども、もし母が來世の人生を思うがままに選べるのだとしたら、子供とじっくり向き合うというスローライフを選択することはあり得ないのではないだろうか。 ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、人はいろいろ後悔するものだけれども、結局人はその魂が誌向するようにしか生きられないのだと思う。