石垣島の北にある魚釣島を含む尖閣諸島は日本に領土であり、そこに勝手に上陸した中國人は不法入國だからけしからんと、日本の警察が逮捕した。
今朝(3月26日)の読売のコラム「編集手帳」は、この地が日本領土であることの証拠としてこんなことを書いている。
「日本は1895年(明治28年)、現地調査を重ねた上で尖閣諸島がどこの國にも屬さないことを確認し、沖縄県に編入した。・・・・米政府は『尖閣諸島にも日米安全保障條約は適用される』と述べている。(従って)どこから見ても日本の領土である」。
また、外務省の基本見解はこうである。
「尖閣諸島は1885年以降、政府が沖縄県當局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行い、単にこれが無人島であるのみならず、清國の支配が及んでいる痕跡及び影響がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に漂杭を建設する旨の閣議決定を行って正式にわが國の領土に編入することにしたものです」(同省ホームページ)。
尖閣諸島を巡っては中國と台灣が互いに領有権を主張しており、これまでの爭いの中で日本政府が主張している根拠も、概ね以上のようなところである。
でもどこか変だと私は感じている。
第一に、「どこの國にも屬さない」ことをどんな方法で確認したのかである。恐らく現地調査で住人や建設物などがないことを確認し、諸外國の自國の領土を示す地図にこの島が記されていないということなのだろう。 だがしかし、恐らくはこの地の近隣諸國に「貴國の領土でない」ことを確認してはいないはずである。確認していれば、ことは領土の問題である、そのことを主張するであろうし、何らかの外交文書があってしかるべきであり、それを示せば今回のような問題は起きないからである。
第二は、「日本の領土に編入した」ことの正當性である。「編入」にはどのような手続きをしたのだろうか。外務省の見解では単なる閣議決定である。國際的に宣言なり、屆出なりのシステムが確立もしくは慣行化していなかったのだろうか。日本の主張からはその辺がちっとも見えてこない。
恐らくその背景には、民法に言う「無主物先占」のような発想があるのだろう。つまり、持ち主のいないものは、早い者勝ちで所有権が確保されるというあれである。
これは、考え方としてはとても分かりやすい。例えば魚なんかは勝手に生まれて勝手に海を回っているのだから獲った者勝ちであり、捨てたゴミは所有者が所有権を放棄したのだから、拾ったらその人の物だ。
それでも鮭は回遊先や産卵先がその権利を主張し、捨てたゴミでもアルミ缶は地方自治體の資源であり、遺失物として數千萬円が落ちていた場合はそれも自治體のものだと言う。國立公園などの特別保護地區では當然のこととして動植物の採集は禁止しているなど、無主物先占を製限する法律は沢山ある。
かほど、その辺の所有権だってそれほど簡単ではない。そもそも民法の規定だって、それはあくまで裁判規範(紛爭のときに裁判官が判斷のよりどころにするということ)に過ぎないのであって、萬古普遍の人間社會の基本的ルールを示したものではない。
所有権は人または法人(當然に國を含む)に認められた近代社會の基本ルールであり、無主の土地は所有権を主張した國に帰屬すると言う學説もある。
しかし、例えば中世ヨーロッパのように、ヨーロッパ人以外は人でないとして、アフリカ、南北アメリカ、アジア諸國などにこの無主の法理を亂用することで、どんどん植民地化を進めていったことも、歴史的に明らかな事実である。しかも、先住権などの問題もからめると、無主物先占の法理の適用はそんな単純なものではない。
第三は、「その後の維持管理」である。ここ數年の話ではない。日本が領有を主張したとするのは1895年、今から110年も前である。その以前は少なくとも日本は領有を主張していなかったのであるから、その主張の時以降、継続してどのような維持管理をしてきたのだろうか。
「自分のものだ」と一度言ったきり、ほったらかしにしておいたとしたら、今回の爭いの責任の一端は日本にもあることになる。
現に、「飛來する航空機が敵か味方かを識別する『航空識別圏』でも、日本最西端の沖縄・與那國島は、島半分が台灣の識別圏に置かれたままだ」と言われている(読売、同日付)。
南極地域や月や宇宙の星を、単に無主だから自分のものだと主張したとしても、支配管理、維持管理できないもの、またはしていないものは所有権の対象となり得ないのが國際ルールだし、それが正しい考え方だと思う。
さてさて、それではお前はどうしたいんだと問われれば、これまた歯切れの悪い意見にしかならないのであるが、これまで述べたようにわが國にも領有権を主張する根拠に、快刀亂麻の寶刀を見出すことは難しいように思う。
ただ、現実問題として、狀況証拠がわが國に極めて有利であることは事実であるから、その有利さをきちんと維持していくことしかないだろうと思う。そしてその主張に當たって、少なくとも傲慢であってはならないだろう、そんな風に私は思っているのである。
紛爭を力で解決することがどんなに愚かなことであるかは、少なくとも日本は先の戦爭で十分味わったはずであるし、現在も引き続く世界中の戦亂やテロが如実に示している。
だからと言って、領土の問題は國そのものの存立の問題である。仮にその土地が経済的にも政策的にも無価値だったとしても、「もめるくらいなら放棄する」などと考えてはいけない。
長い長い、根気の必要な、そして少なくとも後退することのない辛抱強い外交努力を、紛爭國に対しても、それ以外の諸外國に対しても地道に続けていくしかないのかも知れない。
2004.03.28 佐々木利夫