1.相手も自分も、お互いの人格が尊重できる自然な表現をめざします。 2.できるかぎり簡潔な表現をめざします。 3.相手に対して明確に伝わる表現をめざします。 4.誤解を生む表現は、よりよい表現になるよう工夫します。 5.文法的な正誤ではなく、気持ちが正しく伝わるかどうかを優先します。 6.言葉も人も変わるものだから、価値観の変化には柔軟に対応します。 7.ことばはもちろん、敬意を表わすという気遣いの心を磨きます。 |
私はこのサイトで敬語の使用を広めようとしたり 敬語の誤用を正そうとしているのではありません。 あくまでも個人の知識欲に基づいて敬語を整理し 自分を磨くためにまじめに製作しているサイトです。 學究的な難解な解釈は、他のサイトにおまかせします(^^;)。 「語楽」では、日常の會話レベルに主眼をおいて できるだけ多くのみなさんと意見交流したいと思っています。 |
もっと単純に言ってしまうならば、「私はあなたにとってこういう立場の人なんですよ。」という宣言をしているということです。就職活動、仕事、日本の言語の研究、教育指導、いろいろな場麵で「敬意表現のよりよい使い方」が求められています。「その場の人間関係を理解し、お互いの立場を尊重して、自分の思っていることを相手に正しく伝えること」が求められています。敬意を払った表現をしているということが「自分の思いを伝えているようで、実は相手の気持ちを代弁しているのだ」ということに気付けば、もう敬語の半分はマスターしたも同然です。 お互いを感情のある人間としてしっかり認めると、ごく自然に「敬意」がわいてきます。敬意はもちろんですが誠意や好意を伝えようとしたときにも、「話し手」「聞き手」の両者において表現の基準がズレていたら、「いやみ」や「不快」に感じたりや「バカにされた」「なまいきだ」という誤解が生まれてしまうこともあります。
感謝。敬意。その気持ちを伝える言葉が敬語です。その気持ちはだれでも自然にわいてくることですから、気持ちがわいてきたときに敬語を使えばいい、使い方としてはそれだけのことです。 人間関係はとても複雑です。特に日本では、昔から「禮儀・作法はその人の人格をあらわす」ものとして重視されてきました。ですから、敬語はもともと厳密な使い方をされてきたので、日本語の中でも特にむずかしい部分だといわれます。しかし逆に考えると、細やかな気持ちを表現できるので、日本語のよいところだ、ともいえます。むずかしいと思わせる原因は大きく2つあります。 1.「それぞれの立場に対する気遣いを態度ではなく言葉で表現しようとしている」 2.「正しいか間違っているかにこだわる」 からです。なんとなく使って許されるならいいのですが、敬語に関してはかなり厳しく言われることがある。1.はそんなことまでして相手に配慮しようとする日本人の細やかな心遣いの見事さ(いいときも悪いときもありますが)の典型でしょう。2.は接客をはじめ対人関係に影響するものなので、みんながとても気をつかっているのです。 敬語を使うということは、単に言葉の問題だけではなく、生活上の禮儀や作法も一緒に考えなければならないので、とても堅苦しく感じてしまいがちです。苦手意識のある人は、尊敬語・謙譲語・・・など、學問的な定義づけの言葉だけで拒否反応がでますよね。文法的に説明するにはとても便利な用語ですが、もっと感覚的に「相手語」「自分語」などと定義したほうがわかりやすいかも知れません。(じゃり説として普及させてみようかな?)
敬語の間違いについては、あちらこちらで議論されていますし、たくさんの本が出版されているにもかかわらず、現実にはなんとなく使っていたり、身近な人から見聞きして覚えた表現を感覚的に使っている人がほとんどです。ひとつひとつを取り上げて、いくら「正しい」「間違っている」と議論したところで、なかなか使い方が変わるものではないし、麵倒、難しいという雰囲気だけが広まっていくように思います。 自信がないしわからないけれど、使わなければならないときがある。間違うと「それはおかしい」と指摘を受けて嫌な思いをする。「じゃ、正しい表現は?」というと、指摘した人も自信がないし注意された人も納得がいかない。ますますうっとおしい気分になっていきますよね。「敬語なんてないほうがいい」となってしまう。
ただ、「敬語は全く無くてもいい!」という人は少ないようです。たとえ「敬語不要論派」の人でも、敬意表現を使わずに會話することはありえないでしょう。「です」「ます」「お客さん」や関西弁の「おおきに」なども敬語にあたるのですから。他人に対する丁寧な表現は社會生活上必要です。初対麵の人にいきなり「おまえは、・・」と話しかけられると、誰でも気分が悪いものです。昔は「禦前」というのは高貴な人あてに使う敬語でしたが、今の「おまえ」という語には、見下しの意味あいが含まれるようになったからです。 使い方が正しいとか間違っているということが重要なのではなく、あくまでも使う社會の共通認識=感覚の問題なのです。
古くから使われてきた「伝統的な敬語」は、身分をもとにした上下関係が前提でした。昔ながらの使い方だけにこだわることによって「尊敬語を使うことによって差別的な社會を溫存させているのではないか」と心配する人もいます。これからの敬意表現は「上下関係に重點をおいて」使われるものから、「お互いの人格を尊重する気持ちで」使われるように変わらねばなりません。特に社會人としての対話は、お互いに対等でありながら、共に敬意を含むべきでしょう。 過去のように上下が意識された頃と、現在では狀況が違うのです。敬語は「お互いの立場を表明する」ものであって、「上下関係を表すものだという認識は捨ててしまった方がよい」でしょう。
「きちんと敬語を使いこなしたい」「いや、敬語は必要と思わない」などは、「どうしてそう思うのか?」という議論になると、最後には「人としての生き方、あり方」の問題にいきつきます。 「黃色」という言葉しか知らない人と、「レモン色」「やまぶき色」「クリーム色」「パステルイエロー」、さらに「おうど色」「もえぎ色」「オレンジ色」「みかん色」・・・を知っている人では、表現力も物の見え方も違います。食事の時「レタス」「キャベツ」「はくさい」の違いがわかる人とわからない人では、味も食事の楽しみ方も違いますよね。結局、物事は「言葉」を所有することによって認識できる部分が大きいのです。 敬意表現を使うことは、「相手に対する気遣い」もありますが、 「自分の側の豊かさ」が大きく違ってくる ということを、しっかり認識すべきです。敬語を中心とした敬意表現が果たす役割をしっかりと理解したうえで、いろいろなことを前向きに議論すればいい、と思います。 ま、そんなこんなで、みなさんと一緒に表現についていろいろ悩んでみましょうか、というサイトであります。 |