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大河ドラマでは天王山の戦い後、著実に天下への階段をのぼっていく羽柴(豊臣)秀吉だが、のぼればのぼるほど、これまで天下へのおぜん立てをしてくれた軍師?黒田官兵衛より主(あるじ)に忠実な秘書?石田三成を重用する。秀吉は、常に先を見通す官兵衛の才能に嫉妬していたのだろう。農民から武將に、そして織田信長の死とともに舞い降りてきた最高権力の座。この魔力に取りつかれた秀吉はしだいに官兵衛から離れ、自分の力のみを頼るようなっていく。
恐れる秀吉
天王山の戦い後、織田信長の後継者爭いがし烈になり、天正11(1583)年5月、信長の家臣団きっての勇猛さで知られる柴田勝家を近江?賤ヶ嶽で破った秀吉の前に當麵の敵はいなくなった。
「これで天下の行方が決まりました」と話す官兵衛に向かって秀吉は、「すべておことの言う通りになった。恐ろしい男よ。敵に回したくないものじゃ」とねぎらう場麵があった。
秀吉は官兵衛の先を読む力をうらやんでいたのかもしれない。
知恵と気配り、そして抜群の行動力を縦橫無盡に使いこなし、一介の農民から信長の家臣団へ出世した秀吉が、竹中半兵衛と官兵衛という2人の優れた軍師を求めたのは、自分の足らない部分を自覚していたからだろう。
つまり確かな知識に基づく冷靜な判斷力。人を見抜く力や取り入り方などの目先のことなら、秀吉の方が2人より秀でているかもしれない。だが、農民出身の秀吉には兵法に基づく知識と経験がなかった。
兵法をもって戦を兵を動かし、その數々の経験をもとに先々の戦いの行方、さらには世の中の行方を見切れる人材。それも、あまり出世欲のない。そのための官兵衛と半兵衛だったに違いない。
だから、本能寺の変で動揺する秀吉に「殿の運が開けたのですぞ」と瞬時に情勢を分析し、先々の作戦までも立ててしまう官兵衛の能力は期待通りだっただろう。だが、あまりに鮮やかな作戦と行動だったため、逆に恐れを抱いてしまう。
領主?官兵衛
そんな官兵衛も家に帰れば黒田家の主。“小集団のリーダー”ということになる。その官兵衛が、毛利との領地分割交渉中の天正13(1585)年、播磨宍粟(しそう)郡4萬石(5萬石とも)の大名になる。
だが、秀吉の傍らでなにかと忙しい官兵衛は、今の狀況が息子?長政を領主として育てるのに良い機會と思ったのだろう。領主內の仕事をすべて長政にまかせる。
秀吉へ時代が移り、戦亂の世が収まりつつあるのを官兵衛も実感していたのかもしれない。長政に戦いよりも先に統治の道を學ばせたかったようだ。
すぐに長政に最初の試練がやってくる。官兵衛のことをよく思わない領民に腹を立てた長政が刀に手をかけ、長政の指南役として傍らにいた官兵衛の重臣?母裏(もり)太兵衛、栗山善助にいさめられる。
官兵衛からも「領主として受け入れられるには、まず領民を信じよ」と忠告され、力だけでは民衆を治められないことを知った長政は大いに反省する。
そういえば、長政をいさめた太兵衛も黒田の家臣団の中で最も血気盛んで、力に頼るタイプだったはず。
それが、長政が元服して以來かたときも長政の側を離れない太兵衛は、自分に気性が似た長政にこれまでの自分を見ては反省し、バランスのとれた武將へと成長していく。
息子とともに家來までも進化させてしまう一石二鳥の教育効果。そこに官兵衛の狙いがあった。
ストレートな言動
天王山後、官兵衛の敷かれたレールに乗って天下の座をつかんだ秀吉は、自分の力だけで勝ちたい焦りのようなものがこのあたりから出てくる。
何度も上洛の要請を無視する徳川家康に立腹した秀吉は天正12年3月、官兵衛不在のまま小牧?長久手の戦いを始める。
官兵衛に代わって秀吉の傍らにいた石田三成らの後押しもあり、8カ月間に及ぶ戦闘の結果、7萬人の秀吉軍が3萬5千人の家康軍と痛み分けに終わる。
ドラマの中、荒木村重こと道糞(どうふん)が「信長は天下が近づくにつれて変わっていった。天下にはそれほどの魔力がある。誰もがその魔力に捕らわれる。秀吉とて…」と、官兵衛と交わした言葉が秀吉の今後を暗示していた。
兵の數だけならば2倍の秀吉の勝利は約束されたようなものだが、麵目だけで家康と再戦しようとする秀吉に官兵衛は「徳川は昔からの家臣が固い絆で結ばれているので強い」と説得し、ようやく四國攻めへと転換させる。
領地を治めるにも、領民や家臣の結束がなければ達成できないことを知る官兵衛に対し、家康側より結束力で劣る欠點を見抜けないまま家康との戦に固執した秀吉。
目標達成能力と組織の維持能力を持つことがリーダーの條件だが、組織の問題をズバリ指摘したのは、またしても秀吉の恐れる官兵衛。こうなると嫉妬が憎しみに変わる日も近い。
人の心を読む術を知りながら、権力者のプライドを無視してストレートに意見する官兵衛の立場はさらに怪しくなっていく。
(園田和洋)