明朝の政治?思想に多大な影響を與えた陽明學であったが、その明朝と共に衰退し、清朝では考証學に學問の主役の座を奪われるに至る。しかし全くの絶學とはならず、清初においては右派が中心だったため穏健となり、陽明學は「聖學(=朱子學)と異同非ず」と 康熙帝が言うように必ずしも異學視されていたわけではなかった。ただすでに陽明學単體で學ばれるというよりも、「朱(子)王(陽明)一致」といわれ、朱子學を補完するものとして扱われたに過ぎない。雍正帝以降、朱子學の正學化確立、乾隆?嘉慶の考証學全盛期(いわゆる乾嘉の學)到來によってさらにその傾向を強め、陽明學は衰微した。再び腳光を浴びるのは、清朝の末期になってからであった。
陽明學の沈滯狀況は、1840年のアヘン戦爭以降徐々に変化する。まず『海國図誌』を著した魏源によって陽明學は見直され初め、康有為の師である朱次琦は「朱王一致」を再び唱えるなど陽明學は復活の兆しを見せるようになる。後に今文公羊學を掲げる康有為自身も吉田鬆陰の『幽室文稿』を含む陽明學を研究したという。
下の日本の項目で述べるように陽明學は日本に伝來して江戸時代以降の日本史に大きな足跡を殘した。特に明治維新の思想的原動力として大きな影響を及ぼしたといわれる。明治となっても、三宅雪嶺が『王陽明』という伝記を著して陽明學を顕彰し、また陽明學に國民道徳の基礎を求める雑誌『陽明學』やその類似雑誌がいくつも創刊された。
日清戦爭以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中國本土では衰微していた陽明學にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中國からの留學生が増加の一途を辿るが、そうした學生達にもこの明治期の陽明學熱が伝わり、陽明學が中國でも再評価されるようになる。「陽明學」という呼稱が、中國に伝わったのもこの頃であった。清代に禁書とされたこともあって、ほとんど忘れられていた李卓吾の『焚書』や『蔵書』は、明治期の陽明學熱によって中國に逆輸入されている。
中國における陽明學再評価に最も力があったのは、先に觸れた康有為の弟子梁啓超である。梁啓超は1905年、上海で『鬆陰文鈔』を出版するほど、陽明學を奉じた吉田鬆陰を稱揚した。また同時期書かれた梁の『徳育鑑』や「論私徳」(代表作『新民説』の一節)には、井上哲次郎の『日本陽明學派之哲學』の影響が見られる。こうした梁の傾向は戊戌政変後に日本に亡命して以降顕著となるが、それは彼が當時求めていた國民國家創出と深く関係する。まとまりを欠いた「散砂」のような中國の人々を強く結合させるためには、國民精神?道徳が不可欠だと梁啓超は考えていた。陽明學宣揚は、國民國家の精神に注入すべく為されたものであった。
こうした梁啓超の國民國家精神に陽明學を注入するというアイデアそのものも、実は當時の明治思潮から借りてきたものであった。明治30年代當時は、歐化主義の進展によって日本の道徳倫理あるいは武士道精神といったものが退廃にさらされていると考え、それらを陽明學で蘇らせようという風潮が日本にはあったが、これが明治期における陽明學熱の背景である。こうした風潮に梁啓超は感化されたのである。いわば梁啓超らは明治日本において陽明學の再発見?再評価したのみならず、陽明學を柱とする國民精神創造運動も取り込んだといえよう。
日本に伝わった朱子學の普遍的秩序誌向は體製を形作る治世者に好まれた。一方、陽明學は王陽明の意図に反して反體製的な理論が生まれたため、體製を反発する者が好む場合もあった。 自己の正義感に囚われて革命運動に呈する者も陽明學徒に多い。鏡麵のような心(心即理)の狀態に無いのに、己の私欲、執著を良知と勘違いして、妄念を心の本體の叫びと間違えて行動に移してしまうと、地に足のつかない革新誌向になりやすいという説もある(後述の山田方穀も、誤った理解をすると重大な間違いを犯す危険があると考えて、朱子學を十分に理解して朱子學と陽明學を相対化して理解が出來る門人にのみにしか陽明學を教授しなかったと言われている)。
幕末の維新運動は陽明學に影響を受けている。吉田鬆陰、高杉晉作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の亂 )に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明學の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中鬆山藩の山田方穀は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。山田方穀自身は陽明學者だったが、彼は陽明學の持つ危険性も承知しており、弟子には先に朱子學を學ばせ、センスの良いものにのみ、陽明學を教えた。山田方穀と佐久間象山は佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で學んでいる。塾長の方穀に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と稱された。佐藤一斎は昌平黌の儒官として、立場上朱子學を奉じなければならなかったので、公然と陽明學を主張できなかった。しかし、一斎の著である『大學一家私言』は、陽明學の視點で書かれたもので、特に幕末の誌士に大きく影響をあたえた『言誌四録』には陽明學の思想が散見される。また、彼が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から多くの陽明學の影響を受けたものが多數輩出していることなどから、一斎が陽明學を奉していたことは明白である。そのため、『陽朱陰王』の謗りを受けたが、その主とする所は陽明學に存すると言える。
もっとも、日本における陽明學の全盛期は、明治維新以降だとする説もある。三宅雪嶺が1893年に刊行した『王陽明』をきっかけとする幕末陽明學の再興の動きが歐化政策の反動として高揚したナショナリズムや武士道の見直しの動きと結びつき、明治後期から大正時代にかけてピークを迎えたという考え方である。當時の陽明學は日本國民の精神修養の一環として、死生を逸脫した純粋な心情と行動力とを陶冶する実踐倫理として説かれる部分が大きかった[1]。