種類 | 友愛団體(秘密結社、非公開団體) |
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目的 | 會員相互の特性と人格の向上をはかり、よき人々をさらに良くする |
本部 | 各地域の各ロッジ 事実上の総本部(イングランドのグランドロッジ) イギリス イングランドロンドン |
ウェブサイト | 事実上の総本部(イングランドのグランド?ロッジ) United Grand Lodge of England UGLE (英語) |
會員同士の親睦を目的とした友愛団體であり秘密結社 |
フリーメイソン(英: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社。
現在多様な形で全世界に存在し、その會員數は600萬人に上り、うち15萬人はスコットランド?グランドロッジならびにアイルランド?グランドロッジの管區下に、25萬人は英連邦グランドロッジに[6]、200萬人は米國のグランドロッジに所屬している[7]。
「フリーメイソン」とは厳密には各個人會員の事を指しており、団體名としては英: Freemasonry(フリーメイソンリー)、仏: Franc-maçonnerie(フランマソヌリ)、伊: Massoneria(マッソネリア)、獨: Freimaurerei(フライマウレライ)、露: Масонство(マソンストヴォ)である。以下、英語的な発音である「フリーメイソンリー」と記載する。なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド?ロッジは「フリーメイスン」と表記している[8]。
この友愛結社(組合)は、管轄上、獨立したグランドロッジもしくは一部が東方社(オリエント、大東社係)の形で組織され、それぞれが下部組織(下位のロッジ)から成る自身の管區を管轄している。これらの多様なグランドロッジは、それぞれが認め合い、あるいは拒否したりして、境界を形成する[9]。また、フリーメイソンリーの主要な支部には、関連した付屬団體が存在するが、それらはそれぞれが獨立した組織である。フリーメイソンリーは秘密結社[10]または「semi-secret」(半分秘密の)[11][12]団體と表現する場合があるが、いかなる団體であれ団體內部の秘密というものがあり、そうした視點においてフリーメイソンリーは広く知られた公開結社なのであるというフリーメイソンリー側の意見もある[13]。
フリーメイソンリーは「自由」、「平等」、「友愛」、「寛容」、「人道」の5つの基本理念がある[14]。
起源とフリーメイソンリーについては対外的な資料が少ないため、諸説存在する。レギウス?マニュスクリプトとして知られるある詩人は、およそ1390年頃と疑われる、としており、これは諸説あるメイソン起源説の中では、もっとも早くに上るものである。[15] 16世紀には、スコットランドにメイソンのロッジ(Masonic Lodge)が存在していた、とする証拠もある。[16] 例えば、スコットランドのキルウィーニングのロッジには、16世紀後半の記録があり、それは1599年にあった第二シュワー法に言及している。[17] イングランドにおいては、17世紀中盤にはロッジが存在していたことを示す明白な書証がある。[18] 最初のグランドロッジである英國グランドロッジ(GLE、グランドロッジ?オブ?イングランド)は1717年6月24日に設立され、この日に、4つの既存のロンドンのロッジが合同で晩餐をしている。 こうして統括機関は素早く拡張され、殆どの英國のロッジが結合した。 しかし、少數のロッジは、GLEが企図した例えば第三位階の創設のような幾つかの近代化に憤然として、1751年7月17日にこれに対抗したグランドロッジを形成し、彼らはそれを古代英國グランドロッジと稱した。[19] この「近代」(GLE)と「古代」の二つのグランドロッジは、1813年9月25日に英連邦グランドロッジ(UGLE)に統合されるまで、互いに覇を競った。 アイルランド?グランドロッジとスコットランド?グランドロッジは、それぞれ1725年と1736年に形成された。 フリーメイソンリーは、1730年代までには古代、近代共に北米の英植民地に進出し[20]、多様な州グランドロッジを組織した。 獨立戦爭後、米國のグランドロッジは獨立し、それぞれの州に根を下ろした。 何人かは、ジョージ?ワシントンを初代グランドマスターとして、これらを股にかけた合衆國グランドロッジの組織を構想したが、多くのグランドロッジが統合によって、自分達の権威が低下するのを望まなかったため、このアイディアは短命に終わった。[21]
古代であれ近代であれ、ロッジを運営するにあたって行なっているメイソンリーとしての活動內容に差はなかったのだが、こうした部門はF.& A.M.(Free and Accepted Masons)だったり、A.F.& A.M.(Antient Free and Accepted Masons)だったりと、そのネーミングに名殘を見出し得た。
ヨーロッパの最も古い管區であるフランス大東社(GOdF)は、1733年に設立された。 しかしながら、大東社は至高の存在(メイソンでは、複數の宗教の會員がいることから各員が神と信じるものを最大公約數をとってこう表現する)への尊崇義務を會員規定から撤廃し、英語圏メイソンとの確執を引き起こし、両社は1877年頃、公式の関係を斷絶した[22]。 こうした中で、グランドロッジ?ナショナーレ?フランセーズ(GLNF)が、一般に英連邦メイソンとの友好関係を保ち、世界と調和した唯一のグランドロッジとなった。 こうした経緯故に、しばしばフリーメイソンリーは相互に親善関係にない二つの係統から構成されるといわれている。
ラテン係の地域においては、一説によると大東社係スタイルの大陸型メイソンが優勢を占めていたとされるが、英連邦メイソンと友好関係にあるグランドロッジも存在し、それは英メイソンと友愛関係を仲良く分かち合っている。 世界の他の地域においては、マイナーなバリエーションも存在するが、フリーメイソンリーの大部分は、英連邦メイソンのスタイルに近似の傾向にある。
石工組合としての実務的メーソンリーが前身として中世に存在した、とする説もある。こうした職人団體としてのフリーメイソンリーは近代になって衰えたが、イギリスでは建築に関係のない貴族、紳士、知識人がフリーメイソンリーに加入し始めた(思索的メイソンリー。「思弁的-」とも)。それと共に、フリーメイソンリーは職人団體から、友愛団體に変貌したとするのである。
または、実務的メイソンリーとの直接の関係はなく、その組織を參考に、貴族たちが別個に作ったのが、思索的メイソンリーであるともいう。中世ヨーロッパでは、建築はあらゆる分野の技術に精通する必要がある「王者の技術」とされ、建築學や職人の社會的地位は高かった。また、技術の伝承についても厳しい掟が設けられた。その神秘性から、実務的メイソンリーが貴族などに注目され、薔薇十字団の正體ではないかと期待する者もあった。もっとも、これについては実務的メイソンリーはあくまでも石工団體であり、期待は裏切られた結果に終わったようである。
石工団體を元にした名殘りとして、石工の道具であった直角定規とコンパス(Square and Compasses)がシンボルマークとして描かれ、內部の階位製度には「徒弟(Entered Apprentice)、職人(Fellow Craft)、親方(棟梁とも訳す。Master Mason)」の呼稱が殘っており、集會においては、元は石工の作業著であるエプロンを著用する。なお、ピラミッドに目の「プロビデンスの目」をシンボルとするのはフリーメイソンだけではなく、かつて啓蒙思想の者が好んで使用し、ヨーロッパで流行したシンボルであった。
友愛団體に変貌したフリーメイソンリーは、イギリスから、商業や文化のネットワークを介して、ヨーロッパ諸國、ロシア、アメリカ大陸、さらには西歐諸國従屬下にあるアフリカやアジアの植民地にまで広まった[23]。民間人を対象とする國際的な互助組織がない時代だったので、會員であれば相互に助け合うというフリーメイソンリーは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたかった。ウィーンのロッジに加入していたモーツァルトは、同じロッジのフリーメイソンに借金の無心をした記録が殘っている。 フリーメイソンリーが広まった時期は、絶対王政から啓蒙君主、市民革命へと政治的な激動が続く時代でもあり、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ係フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定することから、自由思想としてカトリック教會などの宗教権力からは敵視された。とりわけフランス革命の當事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば舊體製側から體製を転覆するための陰謀組織とみなされた。ナチス?ドイツの時代にはマルクス主義や自由主義とともに民族の統一を阻む抹殺されるべき教説[24]として扱われ、弾圧を受けた。獨立戦爭にかかわった多くの會員がいたアメリカにおいても白眼視される傾向があった。ちなみにニューヨークの自由の女神像はフランス係フリーメイソンリーとアメリカ係フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物という側麵もあり、台座の銘板にはその経緯とメイソンリーの定規?コンパス?Gの紋章がきざまれている[25]。
フリーメイソンリーの入會儀式は秘密とされたが、そのために、かえってさまざまな好奇心をかきたてた。トルストイの『戦爭と平和』では1810年代のロシアのフリーメイソンの會合が描寫されている。またモーツァルトの『魔笛』にフリーメイソンリーの入會儀式の影響を指摘する意見もある。
カトリックとの対立関係は長く、1738年に時のローマ教皇クレメンス12世がフリーメイソンの破門を教書で宣告した(ただし、直接対立したのは前述のフランス大東社係が中心)。もっとも、カトリックの影響力低下もあり、もとよりイギリスなどプロテスタント(あるいはイギリス國教會)諸國では破門の影響はほとんどなかった。一方カトリックの少なくないフランスでは、両者の対立はカトリックによる一方的な圧力に留まらず、逆に政教分離を主張したフリーメイソンリーなどの影響で、公立學校から聖職者が追放される事態も起こった。1983年に破門は一応解除されたが、カトリックは公的にフリーメイソンを危険視する姿勢を崩していない。しかし、カトリック信徒でフリーメイソンリーに入會する者は少なくないという。
フリーメイソンに関する歴史やテンプル騎士団との関係については、M.ベイジェント、R.リー『テンプル騎士団とフリーメーソン』(林和彥訳、三交社刊)に詳説されている。
元フリーメイソンであった創始者による新宗教も多く、モルモン教の創始者ジョセフ?スミスならびに二代目大管長ブリガム?ヤング(加入はブリガム?ヤングが先)、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協會)の創始者チャールズ?テイズ?ラッセル、クリスチャンサイエンスの創始者メリー?ベーカー?エディらがいる。
日本グランドロッジのグランドセクレタリー[28]であり2002年にグランドマスターを務めた[29][30]フィリップ?A?アンブローズによるとボーイスカウトやロータリークラブ、ライオンズクラブなどはフリーメイソンリーからの派生であるという[31]。フリーメイソンに関する書籍を著している皆神龍太郎(『トンデモフリーメイソン伝説の真相』『検証 陰謀論はどこまで真実か』等)によると、「フリーメイソンは何をしているのか」という問いはロータリークラブやライオンズクラブが何をしているのかという問いと同様であり、ボーイスカウトを思い浮かべてもよく、ボランティア活動も一生懸命で、フリーメイソンはロッジ內で商売や政治の話はできないので陰謀を巡らせるような組織でもないそうである[32]。
フリーメイソンリーとは「全人類の兄弟愛という理想の実現」「文明というものがもつ真正で最高の理想実現」等を目的にする友愛団體であり、ボーイスカウト、ロータリークラブ、ライオンズクラブ等の社會奉仕団體のような慈善活動も行うが、慈善活動が全てというわけではない[13][33]。
ロータリークラブの創始者であるポール?P?ハリスはフリーメイソンであったが、社會奉仕と慈善活動に専念する公開結社として、ロータリークラブを設立したといわれている。愛知県江南市のロータリークラブの話では、フリーメイソンリーからロータリークラブになった経緯としては、ポール?ハリスはフリーメイソンリーのように閉鎖的な秘密結社より開かれた組織を求めたのであろうということであり、ロータリークラブ側(RIA)は組織としてのフリーメイソンリーとの関わりは否定しているということである[34]。フリーメイソンの高須克彌(高須クリニック院長)の話ではフリーメイソンリーがロータリークラブと同様の組織であるかというと、全く違うようである[35]。
ライオンズクラブでは、ライオンズクラブ國際協會の創設者メルビン?ジョーンズ[36]はフリーメイソンである[37]。
ボーイスカウトとフリーメイソンリーの関係において、ボーイスカウト創設者の英國陸軍少將ロバート?ベーデン=パウエルは妻オレブによるとフリーメイソンではなく[39]、娘のベティも父ロバートはメイソンのメンバーではないという[40]。
ロバート?ベーデン=パウエルの弟デビッドはフリーメイソンであった[39]。ロバートの孫マイケルもフリーメイソンであり[39]、マイケルはオーストラリアのロッジ「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」の元?マスター(Past Master)である[41]。
「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」のように、ボーイスカウトたちによって作られたロバート?ベーデン=パウエルにちなんだフリーメイソンリーのロッジもあり[39]、「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」は、1929年、豪ビクトリア州知事でビクトリアグランドロッジのグランドマスターを務める[42]フリーメイソンのサマーズ男爵らの會議によりボーイスカウトのフリーメイソンロッジが計畫され、設立された[43]。サマーズ男爵はボーイスカウトの理事長、副チーフ?スカウトを経て、1941年のロバート?ベーデン=パウエルの死後、ロバートを引き継いでチーフ?スカウトになった。「ベーデン=パウエル?ロッジNo.488」はロバート?ベーデン=パウエルの名が付けられた最初のロッジであり[39]、また存命人物の名がロッジに付けられることは異例であった[43]。ロバートはこのロッジのために「With best wishes for the success of the Lodge in its good work. Baden-Powell of Gilwell, 12th May 1931」と銘記した[39][43]。
スカウトの名を冠するフリーメイソンリーのロッジ「スカウトロッジ」もある[44][45]。
「ジャングル?ブックとスカウティング (英語版wikipedia)」も參照
ロバート?ベーデン=パウエルはノーベル文學賞作家ラドヤード?キップリングと友人であった[39][46]。1916年、ロバートは低年齢のスカウトへの教えに適した物語が必要と思い、キップリングの著書『ジャングル?ブック』(1894年)をカブ?スカウト(ウルフ?カブ)のハンドブックのメインテーマに使いたいとキップリングに頼んだ[46]。キップリングは承諾した[46]。キップリングは1886年にメイソンリーに入會し1889年にメイソンリーを辭め、1909年に再びメイソンリーに參加し、1910年に名譽會員を務め、1922年に「Builders of the Silent Cities Lodge No. 12」の設立に関與し、その後生涯にわたりその設立したロッジの會員であった[47][48]。
1907年に英國で発足したボーイスカウトが米國に設立されたのは1910年である。アメリカのボーイスカウト(BSA)設立は英國のあるボーイスカウト少年の善行に由來する[49]。BSA設立発起人(incorporator)となる米國人実業家ウィリアム?ディクソン?ボイスが1909年に英國ロンドンに滯在中、濃霧で道に迷ってしまい、ある少年がボイスを助けた[50][51]。その少年はボーイスカウトであり、ボイスがお禮のチップを用意しても、少年は人に親切にすることはスカウトの義務であると説明しチップを受け取らなかった[50][51]。少年に感激したボイスは、ロバート?ベーデン=パウエルに會い米國にボーイスカウトを設立することを提案し、アーネスト?トンプソン?シートン、ダニエル?カーター?ビアード(ダンおじさん)、ジェームス?E?ウェストの3人の協力のもと、1910年2月8日にBSAを設立した[51][52]。ロバート?ベーデン=パウエルと彼ら4人の設立者のうち(BSA設立前または設立後に)フリーメイソンであったことが確認されているのはウィリアム?ディクソン?ボイス[38][53]、ダニエル?カーター?ビアード[38][54][55]、ジェームス?E?ウェスト[38]の3人である。BSAの設立発起人となったボイスの他3人は設立時の役員に就任した。またダニエル?カーター?ビアードが組織していたSons of Daniel Boone(後にBoy Pioneers of America)は、BSAが設立されるとBSAに合併した[50][55]。ボイスが1915年に設立したLone Scouts of Americaは1924年にBSAに合併した[50]。
ボーイスカウトにより「ダンおじさん」(Uncle Dan)として親しまれるダニエル?カーター?ビアードはフリーメイソンリーとボーイスカウトとの関係を最初に築いたフリーメイソンであるという[56][57][58][59]。またBSAへの貢獻によりメソニック?ロッジの會員すなわちフリーメイソンにメダルが贈られる「ダニエル?カーター?ビアード?メソニック?スカウター?アワード」があり、これはフリーメイソンリーによる栄譽としてBSAの承認を得て創設された賞である[56]。
BSA設立発起人ウィリアム?ディクソン?ボイスの他、BSA設立時の14人の役員[50]のうち(BSA設立前または設立後に)フリーメイソンであったことが確認されているのは、名譽會長のウィリアム?タフト[60][61]、名譽副會長兼チーフスカウト市民のセオドア?ルーズベルト[61][62][63]、副會長のミルトン?A?マクレー[64]、同じく副會長のベンジャミン?L?デュラニー(Benjamin L. Dulaney、1857年生)[65]、ナショナルスカウトコミッショナーのダニエル?カーター?ビアード(ダンおじさん)、チーフスカウトエグゼクティブのジェームス?E?ウェストなど。その他、チャールズ?イーストマンやグリフィス?オグデン?エリスらフリーメイソンと確認されている人物[55][66]が設立に関與した。
第二次世界大戦後の日本においてボーイスカウトは日本のフリーメイソンリー復興に大きな役割を果たし、またフリーメイソンリー側では米國のメイソンたちが日本のボーイスカウトを支援する約束をした[67]。1947年、連合國軍占領下の日本におけるボーイスカウト活動再開を許可した連合國軍最高司令官ダグラス?マッカーサーはフリーメイソンであった[67]。マッカーサーは1949年9月から1951年4月の帰國までボーイスカウト日本連盟の名譽総長を務めた[68]。戦後のボーイスカウト復興に取り組んだボーイスカウトの幹部村山有と三島通陽は後にフリーメイソンリーに入會した[67]。
日本のフリーメイソンリーはボーイスカウト団體を支援している[69]。
日本のフリーメイソンリーの恒例行事「メソニック子ども祭り」にはボーイスカウトが參加する[70][71]。
フリーメイソンが最初に日本に訪れたのは江戸幕府による鎖國政策の時代であり、1779年に長崎港出島のオランダ商館に商館長として駐在したオランダ東インド會社のイサーク?ティチングが初訪日のフリーメイソンであると考えられている[72]。ティチングがフリーメイソンリーに入會したのは1772年、オランダ領東インドバタヴィア(インドネシアジャカルタ)でのことである[72]。日本國內にメイソンリーのロッジ設立が始まったのはそれよりさらに後になってからである。
江戸末期の1853年、開國(開港)を日本に迫ったマシュー?ペリーはメイソンであった[73]。ペリーは1819年にニューヨークのホーランド?ロッジでメイソンリーに加入した[65]。ペリーを日本に遣わせたミラード?フィルモア米大統領は、フリーメイソンの集まりに參加した記録はあるが[65]、フリーメイソンではない[74][75]。
1860年2月26日(安政7年2月5日)、橫浜で攘夷派によってオランダ人船長W?デ?フォスと、商人N?デッケルが暗殺された(オランダ人船長殺害事件)。外國人達は攘夷派への示威行動の意味もあり、できるだけ盛大に二人の葬儀を行おうとした。この時、殺された二人はフリーメイソンであると言われており、外國人のメイソン達は、儀式用の正裝であるエプロン著用で葬儀に臨んだ。これが日本におけるフリーメイソンの最初の記録という(ただし、二人が會員であった証拠は見つかっていない)。二人は橫浜の外國人墓地に埋葬され、その墓は現存している[76]。
1864年(元治元年)、イギリスは居留民保護のため英國第20(イースト?デヴォンシャー)歩兵連隊(後のランカシャー?フュージリアーズ)を香港から橫浜に移動させた。同隊の軍隊ロッジ「スフィンクス」は、隊員のためのロッジであるが、在日イギリス人のためのロッジとしても機能し、また恒久的な民間ロッジ設立のための手助けをした。1865年1月、スフィンクス?ロッジは橫浜在住のフリーメイソンから家を借り、これをロッジとして日本初の集會を行った。スフィンクス?ロッジは1866年(慶応2年)3月に離日したが、改めて民間ロッジとしてイングランド?グランド?ロッジの承認を受け、6月26日、「橫浜ロッジ」が恒久的な民間ロッジとして設けられた。このロッジは度々移転しているものの現存しており、日本國內最古の現役ロッジといえる。続いて登場したのが1870年(明治3年)発足のロッジ?兵庫?大阪(神戸)である。
土佐藩士阪本龍馬の海援隊へ武器を仲介したり薩摩藩士や長州五傑の世話をしたイギリス人武器商人トーマス?ブレーク?グラバーがフリーメイソンだったとする主張もあるが、彼がフリーメイソンだった証拠はない。しかし父のトーマス?ベリー?グラバーが沿岸警備隊の1等航海士だったこと(當時、海軍では出世するためにメイソンに入會することが必須だったと言われている)がグラバー=メイソン説が言われる一因になっている。また彼が12歳の時に移り住んだスコットランドのアバディーンはメイソン最古のロッジである「アバディーン?ロッジ」がある場所でもある。また1869年に橫浜にオテントウサマ?ロッジNo.1263が設立される[77]が、名前の「オテントウサマ」はグラバーが所有していたオテントウサマ號という船から取ったものである。また長崎にロッジが設立されたのは1885年である。
日本人のフリーメイソンは、1864年、留學先のオランダで入會した西周と津田真道が最初という[78]。しかし、第二次世界大戦以前の日本では、日本人の會員はほとんどいなかった。明治政府は結社の自由?集會の自由を厳しく製限しており、1887年(明治20年)、事前屆け出がなく、あるいは警察官の立ち會いのない集會を禁じる保安條例を発令した。直接的には自由民権運動を弾圧するものであったが、同法は秘密結社を禁止しており、フリーメイソンリーにとっても保安條例が適用されれば、最低でも集會に警察官の立ち入りを要求されるのは明らかであった。この時期、不平等條約によって外國人は治外法権に置かれていたが、不平等條約が是正されれば、フリーメイソンリーに官憲の手が及ぶのは時間の問題と思われた。
そこで、フリーメイソンで、お雇い外國人として日本政府の通信技術顧問であったW?H?ストーンを代表として、日本政府と協議した。フリーメイソンリーは日本政府と対立する意誌はなかったので、ストーンはフリーメイソンリーの非政治?非宗教性を説き、歐米各國で政府に承認?支持されていると強調した。その結果、フリーメイソンリーは保安條例の対象外とする代わり、日本人を入會させないこと、日本社會への接觸?宣伝をしないという「紳士協定」を交わしたという。この協定は口頭によるもので、日本側の書類としては発見されていない。ただ、フリーメイソンリー側には、協定遵守を申し合わせた記録が殘っているという[79]。
保安條例の廃止後も、治安警察法によって結社は屆出製(內務大臣権限によりいつでも禁止可能)とされ、秘密結社の禁止は続いた。フリーメイソンリーは日本人への働きかけを自粛し、日本人から隔絶した存在であり続けた。戦前にフリーメイソンリーに入會した日本人は、海外のロッジでの入會者に限られていた。しかし、そのために「外國人だけが入會するスパイ団體、「日本人はのけものにされ、入會はおろか見學さえもさせぬ反日?反國體的人種差別団體」という、その意に反した非難にさらされることになった。
昭和期、日獨伊三國同盟が成立すると、ナチス黨政権下のドイツの影響で日本にも「フリーメイソン陰謀論」、「ユダヤ陰謀論」が広まった。既に大正時代、今井時郎や樋口艶之助は、フリーメイソンリーの自由主義?民主主義的理念を共産主義の発生源と非難していた。昭和に入ると、陸軍中將の四王天延孝は、ナチス黨の影響を否定しつつ、ユダヤ?フリーメイソン陰謀論を流布した。四王天は、『シオン賢者の議定書』という偽の文書を陰謀の物証とした。1943年に毎日新聞社主催、情報局が後援をし、銀座の鬆屋で「米英を操る黒幕の正體をえぐり出し、國際謀略の思想に構えんとす」というキャッチコピーの下、「國際秘密力とフリーメーソンリー展」という催しが行われた。
1941年(昭和16年)、日本がイギリスやアメリカ、オランダやオーストラリアに宣戦布告すると(大東亜戦爭)、ロッジはことごとく憲兵?特別高等警察によって閉鎖に追い込まれ、書類?備品は全て押収された。
「日本への原子爆弾投下」も參照
第二次世界大戦中の米國においても米軍最高司令官たる米大統領以下、フリーメイソンの政治家が多かった。連合國側の原子爆弾開発「マンハッタン計畫」を推進したフランクリン?ルーズベルト第32代大統領と、日本への原爆投下時の第33代大統領ハリー?S?トルーマンはフリーメイソンであった。日本への原爆投下を計畫?実施したカーチス?ルメイ少將(東京大空襲指揮官)はフリーメイソンであり、1944年7月7日にオハイオ「レイクウッド?ロッジNo.601」(Lakewood Lodge)にてフリーメイソンの階級を第3階級マスターメイソンに昇級した[65]。フィリピンの戦いに従軍の指揮官であったダグラス?マッカーサー元帥(戦後日本の連合國軍最高司令官)もまたフリーメイソンであったが[83]、彼は原爆投下の必要性に同意しなかった(朝鮮戦爭では原爆投下を立案した)。政治的イデオロギーでは、F?ルーズベルトとトルーマンは民主黨出身の大統領、マッカーサーは共和黨等が擁立した大統領候補者であった。大多數の米國民は原爆投下の倫理上の葛藤を抱えながら日本國民への心配を目に見える態度で表すことはほとんどなく、その問題からは目を背け、原子力エネルギーの將來というものに注目していたようであったが、原爆投下後に米國で稱賛の聲もあまり聞かれず、米國民の大多數はまた原子力エネルギーがもたらす放射線被曝の問題を分かっていなかった[84]。
1945年日本への投下実行までの歳月においてフリーメイソンリーと原子爆弾の間に特に相関があるわけではなかった。フリーメイソンリーのあらゆる時代において多くの平和主義者もまたフリーメイソンであった。例えば反軍的な『出兵の祈り(戦爭の祈り)』を著したマーク?トウェイン[85]。啓蒙時代のヨーロッパ思想家の中で、フリーメイソン且つ平和主義者は顕著に多かった(例えばヴォルテール)。
平和主義からなる歐州統合構想「パン?ヨーロッパ」を1920年代から提唱していたフリーメイソンのリヒャルト?ニコラウス?栄次郎?クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、平和のために利用される前人未踏のエネルギー源が人類の生活を豊かにすることを思い描き(クーデンホーフ=カレルギーの技術論)、ナチス?ドイツ指導者アドルフ?ヒトラーに対して言論で戦った(クーデンホーフ=カレルギーとヒトラー)。トルーマン大統領は戦中に米國に亡命したクーデンホーフ=カレルギー伯爵による歐州統合構想を支持した[86][87]。トルーマン大統領はとりわけ亡命中のクーデンホーフ=カレルギー伯爵による1945年12月発表の歐州統合構想の記事に感銘を受け、この記事は米國の「公式政策」として採用された[86]。また第二次大戦下の平和主義者は、「國際連合の父」コーデル?ハルである。ハルは、第二次大戦中に國際連合(國連; UN)設立のために重要な役割を果たし、その功績により1945年にノーベル平和賞を受賞した[88]。ハルはフリーメイソンであった[89]。
ナチ黨政権期のドイツと同様に激しく反フリーメイソンリーで、フリーメイソンを絶やそうとしたソ連(ヤルタ會談で対日參戦決定)は積極的に原子爆弾を開発していた。メイソンリーを製限していた戦中の日本もまた原爆開発に著手していた(日本の原子爆弾開発)。
1945年、日本の敗戦で第二次世界大戦が終わると、1946年よりロッジの再建が始まった。そして、1950年1月5日、佐藤尚武(外交官?政治家)、植原悅二郎(政治家)、三島通陽(作家?政治家)、高橋龍太郎(実業家?政治家)、芝均平(ジャーナリスト、元ジャパンタイムズ編集局長)らが、初めての日本における日本人會員となった[92]。この時點で日本のロッジはフィリピン?グランド?ロッジの傘下にあり、フィリピンの対日感情は最悪だった。4月8日フィリピン代表のマウロ?バラディが來日し、「世界平和のために、日本人を兄弟として握手しようと決心し、過去の罪を許してメイソンとして迎えるべく決意した」と演説した。星島二郎はこれに応え、國會にフィリピンに対する謝罪決議を提出し、全會一致で可決させたという[93]。1950年は國會議員5人他、合計7人の日本人が入會した[31]。
自身も會員であったダグラス?マッカーサーは、対日政策の一環として、皇族を皮切りに日本の指導者層を入會させ、最後は昭和天皇を入會させる腹づもりであったという(フリーメイソンリーは直接的な勧誘はしないことになっているので、それとなく興味を持たせるようにした)。フリーメイソンリーは、米國にとっては冷戦下の反共の砦としても期待されていた[94]。昭和天皇の入會は実現しなかったが、はるか後年の1995年にも、リチャード?クライプ元グランド?マスターが取材に「日本でも天皇陛下がメンバーだったら、偏見がなくなり、もっともっと簡単にメンバーを集めることができるでしょう。もし、天皇陛下に入っていただければ、私は名譽グランド?マスターにしてさしあげたい(笑)。」[95]と答えており、現在でも天皇の入會を期待しているものと思われる。
1951年に入會した鳩山一郎は[96]、入會時の第1階級(エンタード?アプレンティス)を経て[67]、1955年に第2階級(フェロークラフト)へ進級[67][97]、さらに第3階級(マスターメイソン)に昇級した[67][98]。彼のマスターメイソン昇級は1955年當時に報道されている[99]。一郎がメイソンリーに入會した理由は、一郎に思想的影響を與えたクーデンホーフ=カレルギー伯爵がメイソンであったからである[100]。
スコティッシュ?ライト第32階級のメイソン高崎廣によれば日本でもフリーメイソンの影響がみられるようである[101]。日本國憲法第21條は集會の自由、結社の自由、言論の自由とフリーメイソンの理想が並んでいる[34]とする考えもある。フランス革命の自由、平等、友愛(自由、平等、博愛)の3つの用語もフリーメイソンの基本的理念である[14]。
1957年には會員數が2500人を超え、獨立したグランド?ロッジを構えるべきという気運が高まり、3月に東京グランド?ロッジを設立した。初代グランド?マスターは、ベネズエラの外交官カルロス?ロドリゲス=ヒメネスであった[102]。また、主に米軍基地內にフィリピン係ロッジ、黒人係ロッジが別途存在する。これらは日本Grand Lodgeとの直接的な関わりはなく、各ロッジは個別のGrand Lodgeに屬している。
フリーメイソン日本グランド?ロッジの公式ホームページによれば、「會員相互の特性と人格の向上をはかり、よき人々をさらに良くしようとする団體」であるとされているが、具體的な活動內容は非公開である。対外的には學校設営や、慈善団體への資金援助などのチャリティ活動を行っており、日本では5月に子ども祭り、8月にバーベキューが催され、これには會員以外の一般人も參加可能であるという。その他行事として「晝食會」「野外活動」「遠足」「チャリティ?コンサート」などがある[103]。社會福祉として孤児院、ホームレス、レイプ被害者、眼球バンク、火傷した子供、盲導犬等に関わる活動を支援している[69]。
會員同士の親睦を深め合うことも活動の一環であり、集會後の食事會も正式な活動である。初期のロッジは、レストランやパブ、居酒屋、宿泊施設が多かった。
フリーメイソンリーは、原則として國や州を単位とする、グランド?ロッジ(Grand Lodge(英語版))と呼ばれる本部があるものの、全體を統製する総本部はない。ただし、最初にグランド?ロッジの成立した、イングランドのグランド?ロッジによる認証が本流であるとする認識から、これを「正規派」「正統派」と稱し、同グランド?ロッジが認証しないロッジは非正規な存在と見なされることが多い。以下の「#會員數」「#入會條件」も、正規派とされるフリーメイソンリーの例である。
グランド?ロッジはプロビンシャル?グランド?ロッジ(Provincial Grand Lodge)やディストリクトグランドロッジ(District Grand Lodge)と呼ばれる県?地域支部、および直轄に管理されるロッジで構成され、県?地域支部はロッジと呼ばれる支部から構成される。ただし、活動規模の小さい國や地域では、グランドロッジは県?地域支部を置かず、ロッジを直接管理している場合もある。日本においては一般財団法人日本メイスン財団(公益法人製度改革に伴い、厚生労働省所管の公益法人であった財団法人「東京メソニック協會」から2012年4月1日改組)と任意団體「日本グランド?ロッジ」傘下のロッジ群の2形態で構成され、日本メイスン財団所有の建物に日本グランド?ロッジが入居し、各ロッジの福祉関連事業は財団の事業予算で支援されている。また、イングランド係、スコットランド係、フィリピン係、アメリカ?マサチューセッツ州の係統、アメリカ?ワシントン州のプリンス?ホール係(黒人係)ロッジが日本グランド?ロッジとは別係統で存在する。それらの殆どは在日米軍基地內にある軍事ロッジ(軍人により設営されるロッジ)である。
ロッジは他のロッジから認証されることで、フリーメイソンのネットワークに加入できる。あるロッジの振る舞いがフリーメイソンリーとして不適切であった場合、他のロッジはそのロッジへの認証を取り消すことで排除する。正式名稱が Free and Accepted(承認された) Masons であるのはそのためである。
會員は"Brother"(兄弟)と互いに呼びあう。會員は秘密の符牒(ふちょう)や握手法で「兄弟」かどうかを見分け、「兄弟」はいざという時は助け合うことになっている。歐米には有力者の會員も多いため、さまざまな場麵で有利に働くことがあるという(人脈が出來る)。ただし、ロッジには外の問題を持ち込まない決まりになっているとされる。また、符牒や握手法は秘密の建前ながら、現実には暴露本などで有名になりすぎたため、歐米ではむやみに使いたがる非會員も少なからず存在する。そのため、実際に會員を見分ける必要がある時は會員証を提示させるか、それができない狀況ならば、さらに込み入った質問(test question、検分質問)を行っているという[106]。
また、ヨーロッパのフリーメイソンには準會員に相當する存在として、"serving brother"(奉仕する兄弟)が設けられている。これは、初期にレストランなどを利用してロッジの會合を開いていたことに端を発する。店主や給仕などにも守秘義務を課す必要があったため、必要最小限の參入儀禮を執り行い、準會員相當の資格を與えた上で、実務的な內容の誓約を取り交わすことにしたのである。専用のロッジが一般的になると、今度は門外門衛(門番)に有給で「奉仕する兄弟」を雇用する事例が増えた。門外門衛は職務上儀式に參加できないため不人気であり、會員のみでは人手不足になりがちだからである。また、貴族を會員に迎え入れた場合、その従者を徒弟か、あるいは「奉仕する兄弟」にしたり、軍事ロッジで雑務を行う下級兵士を「奉仕する兄弟」にした例もある。アメリカでは準會員の製度は無いが、施設の維持管理などは、信頼の置ける非會員を有給で雇う例が少なくない[107]。
「メソニック?グランドロッジの一覧 (英語版wikipedia)」も參照
會員數については上述したが、非公開的な結社である為、異説もあり、日本グランド?ロッジによれば、世界に上述の半數の約300萬人とされている。また、2011年に『ウォール?ストリート?ジャーナル』が報じたところによると、2000年代半ばに200萬人を切り、現在は140萬人になっている[104]。『朝日新聞』に明らかにしたところによれば、日本での會員數は約2000人で、多くは在日米軍関係者。日本人は300人程度という[10]。その為海外からの日本グランド?ロッジに対する認識はいわゆる「軍事ロッジ(または「ミリタリー?ロッジ」)」であるという。日本人における會員第一號は、西周(にし あまね)。米軍関係者は國外への異動も多くその実數は変動する。また、日本國內には、フィリピン係ライジングサン、黒人係プリンスホール等のロッジ、及び會員も別途存在する為、正確な會員數は不明。日本のロッジでは英語と日本語、またはそのいずれか一方が使用されている[108]。
入會資格として何らかの真摯(しんし)な信仰を要求しており、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教(以上アブラハムの宗教)の信徒はもちろん、仏教徒[109]などであっても入會できる。無神論者は入會できない(例えば日本のあるロッジではそのようである[33]。しかしながらメキシコの大統領プルタルコ?エリアス?カリェスのように無神論者で共産主義者のフリーメイソン[65]もいるようである。#フランス大東社とフランスでの動向も參照。)。たとえ信仰する宗教があったとしても、社會的地位の確立していない宗教(例として新宗教各派)である場合は入會できない。ただし、特定の宗教を信仰していなくても、神(あるいはそれに類する創造者)の存在を信じるものであれば、入會資格はある[33]。これらの信仰を総稱して、「至高の存在への尊崇と信仰」と呼ぶ。
そのほかの入會資格として、成年男子で[33]、世間での評判が良く、高い道徳的品性の持ち主であり、健全な心に恵まれ、定職と一定の収入があり[33]、家族がいるならばきちんと養っていること[33](獨身者も入會できる[110])、身體障害者でないことが求められる。ただし、二度の世界大戦で傷痍軍人が激増し、社會活動する身體障害者は珍しくなくなった。そのため、現在は身體障害者排除の規定は廃止されていないが、ロッジの裁量で入會を認めることができるようになっている[111]。國立ロッジNo. 3の入會條件からも、各國?各ロッジごとに差異があることが伺われる[33]。
ロッジ會員の投票で全會一致の承認を得た上で、さらに身辺調査を行い最終的に決定する。また、入會時には4萬円から6萬円程度の一時金が必要である。この他、年會費として6千円前後。アメリカでは、入會金450ドル、年會費300ドル[104]。そしていざ入會する際には儀式の暗記と宣誓の暗唱が求められる。そのため事前にコーチが付いてレクチャーも行われる(なお、階級昇進においても儀式の暗記と宣誓の暗唱が求められる)。入會を拒否された場合でも、一定期間を置いて再申請は可能。 儀式の中にはソロモン神殿の築家棟梁ヒラム?アビフの伝承等をメイソンの理念に絡めた演劇を行うものが存在する。
日本グランド?ロッジでは、月に1度無料説明會を行っている[112]。1970年代には會員數が5000人規模[31]に達したが、その後減り続け、2000人規模まで落ち込んだ。2006年、『ダ?ヴィンチ?コード』が映畫化され、これを観た入會誌望者が増加。無料説明會を開くようになった。しかし、2008年に広報擔當の渡辺一弘と北村安忠が朝日新聞の取材に応じた際の渡辺の説明によると、「人脈作りを期待したり、秘密結社という想像を膨らませたりして入って、期待と違うとやめていく人が多い」ということであった[10]。
アメリカでは、會員數減少に歯止めを掛けるため、説明會の広告を出し、集団儀式を主催して數百人単位での新規入會を行うようになった。しかし、クリストファー?ホダップによると、「高齢団員による絶望的なグループ」、「請求書の支払いやまずい食事、誰がユニフォームにアイロンをかけるか、といったことに関する長時間の會議」などを目の當たりにして、新人の多くは2度と姿を見せなかった。ただし、こうした努力の結果、會員數減少に歯止めは掛かっているという[104]。
また、メイソンの食事會?集會?ロッジにおける政治活動も禁じられており、宗教や政治問題を持ち込んではならないとしている(中立性を保つこと、差別の排除、全人類の兄弟愛の実現等のため)[33]。
自分が會員であることを隠す必要はなく、會員であることを公言している人もいる。ただし、自分以外の會員について、その者が存命中に會員であることを公表することは禁じられている。入會勧誘は內規で禁じており、公募はしていない(実際には、前出のように無料説明會も開いているのだが、直接の勧誘はしない建前)。入會には2人の推薦者(保証人)が必要とされる。推薦者となる2人のフリーメイソンの友人?知人がいない者は、ロッジを訪問し、多くの會員たちと交流する中で推薦人を見つけることもできるようである[33]。入會の前に多數のメイソンリー會員と知り合うことは重要なことのようである[113]。
外部の取材については、かつては厳しく製限していたが、近年は「フリーメイソンズ?ホール」に「The Library and Museum of Freemasonry」を併設して、蔵書を閲覧できるようにしたり所蔵品を紹介するツアーを実施している。また定期的にグランドマスターの就任式を公開したり、テレビカメラの前で會員が儀式劇を再現するなど少しずつ情報公開に方向転換している[95][104]。ちなみに、日本グランド?ロッジの儀式見學を許された初めての取材者は赤間剛である[114]。これはあくまで外部取材についての話で、ジャーナリストの會員はこれ以前から少なからず存在する。
女性は入會することができないが、外郭団體として第3階級マスター?メイソン(親方。#階級參照)の妻、母、姉妹だけが入會できるイースタン?スター(東方の星の結社)(The International Order of Easten Star)が存在する。こうした外郭団體は、女性を対象とするものでも會員(もちろん男性)がお目付役兼サポーターとして付けられている[115]。また、一部のロッジでは、女性のフリーメイソンリー會員を認めているところもあるが(例えばGrande Loge féminine de FranceやGrande Loge mixte de France)、多くのロッジでは伝統などを理由にこれを認めておらず、排除している。ちなみに女性會員の場合でも呼び方は「シスター」ではなく「ブラザー」である。
子供から入會できる外郭団體としては、男子はディモレー結社(デモレー)、女子は國際ヨブの娘たち、少女のための虹の國際結社(虹の少女たち)などがあり、ボーイスカウトやガールスカウトに類似する活動を行っている。ディモレー結社や虹の少女たちは、親が非會員でも入會できる[116]。
現在、日本グランド?ロッジがある「東京メソニックビル」(masonic=メイソンの)は、戦前は日本海軍士官の親睦団體である水交社(海軍省の外郭団體)の本部ビルであった。しかし終戦後のGHQの解散命令により水交社は解散し、本部は空きビルとなり、その空きビルを米軍関係者がサロンとして使用し始めた。そこからフリーメイソンのロッジとして使用されるようになり、會員であるマッカーサーの盡力などにより、このビルに日本グランド?ロッジが創設された。後に復活した水交社から返還を要求する訴訟が起こされたが和解が成立し現在に至っている。現在は建て替えられたが、一室には水交社の応接室が再現されている。ちなみにこのビルは東京タワーの側にあることでも有名であり、それにまつわる陰謀論も存在する。また、東京メソニック協會はこの周辺にいくつかのビルを所有している。日本グランドロッジは世間において時として「フリーメイソン日本支部」「フリーメイソン日本本部」等の表現が用いられている。
メソニック38MTビル(1981年7月竣工)とメソニック39MTビル(1983年4月竣工)は森トラストのオフィス物件であり[120][121]、日本メイスン財団のウェブサイトにメソニックMTビルが沿革として紹介されている[122]。メソニック38MTビルにはかつてイトーヨーカ堂グループ本社や富士通エフサスが入っていた。メソニック39MTビルにはウォルト?ディズニー?テレビジョン?インターナショナル?ジャパンが入り、ビル下層階の窓に「Disney channel」のロゴやミッキーマウスが描かれている(ウォルト?ディズニーはデモレーインターナショナル DeMolay International のメンバーであったもののメイソンではなかったようである[123])。
東京都國立市のスクエア?アンド?コンパス?ロッジ(國立ロッジ)No.3の所在地はJR國立駅の南にある「國立メソニックセンター」(Kunitachi Masonic Center)である。當該ロッジ內部では「フリーメイスン國立支部」とも呼稱されているようである[124]。
京都では2012年に[125]新たなロッジ「京都禦門ロッジNo.23」(Kyoto Mikado Lodge No.23)が開設される以前には、京都市東山區夷町(えびすちょう)の三條通沿道に日本グランドロッジ管轄の「京都メソニック?ロッジNo. 5」(Kyoto Masonic Lodge No.5)がある[126][127][128]。京都メソニック?ロッジNo.5は2011年の日本グランドロッジ管轄ロッジのリストから除外されている[129]。
マスターメイソンになると日本國內でも外郭団體スコティッシュ?ライトに參加できる[33]。
下表は2013年現在の現行のロッジの一覧。
場所 | 名稱 | ロッジNo. (#) | ウェブサイト |
---|---|---|---|
青森県三沢市 | 青森ロッジ Aomori Lodge |
10 | http://aomori10-freemasons.org (舊サイトのアーカイブ) |
東京都港區 | 日本グランド?ロッジ Grand Lodge of Japan |
http://www.grandlodgeofjapan.org | |
東京都港區 | 東京メソニック?ロッジ Tokyo Masonic Lodge |
2 | |
東京都港區 | 東京友愛ロッジ Tokyo Yuai Lodge |
11 | |
東京都港區 | デモレーランド?ロッジ DeMolay-Land Lodge |
22 | |
東京都港區 | 日本リサーチ?ロッジ Research Lodge of Japan |
||
東京都國立市 | スクエア?アンド?コンパス?ロッジ (國立ロッジ) Square and Compass Lodge (Kunitachi Lodge) |
3 | http://number-3.net/jp/index.html |
東京都福生市 | 國際ロッジ Kokusai Lodge |
15 | http://www.kokusailodge.yolasite.com |
神奈川県橫浜市 | ファーイースト?ロッジ Far East Lodge |
1 | http://www2.gol.com/users/lodge1/index-j.html |
神奈川県橫須賀市 | 橫須賀ロッジ Yokosuka Lodge |
20 | http://www.yokosukalodge20.com |
神奈川県相模原市 | 相模原メソニック?ロッジ Sagamihara Masonic Lodge |
13 | |
愛知県名古屋市 | 鳥居メソニック?ロッジ Torii Masonic Lodge |
6 | |
京都府 | 京都禦門ロッジ Kyoto Mikado Lodge |
23 | http://kyotomikado.minibird.jp/index.html |
山口県岩國市 | 錦帯ロッジ Kintai Lodge |
16 | http://iwakunimastermason.com |
福岡県 | 卑彌呼ロッジ Himiko Lodge |
24 | http://himikolodge24.webs.com |
長崎県佐世保市 | 日本ロッジ Nippon Lodge |
9 | http://nipponlodge9.synthasite.com |
沖縄県中頭郡 | 帝國ロッジ Teikoku Lodge |
19 | http://www.teikoku19.com |
日本グランドロッジ以外のグランドロッジの管轄で2013年現在の現行のロッジの一覧。
日本で女性?男性の混成ロッジは、2008年にフランス係の國際的な女性?男性混成のフリーメイソンリー団體「人権」(Le Droit Humain International; ル?ドロワ?ユマン?アンターナショナル)の支援により東京に設立されたロッジ「日の出」(Soleil Levant; ソレイユ?ルヴァン)である。
管轄グランドロッジ | 場所 | 名稱 | ロッジNo. (#) | ウェブサイト |
---|---|---|---|---|
フィリピン Grand Lodge of the Philippines |
神奈川県キャンプ座間 | ライジングサン?ロッジ Rising Sun Lodge |
151 | http://www.risingsunlodge151.com/1.html |
沖縄県中頭郡 | 沖縄ロッジ Okinawa Lodge |
118 | ||
イングランド United Grand Lodge of England (UGLE) |
兵庫県神戸市 | ライジングサン?ロッジ Rising Sun Lodge |
1401 | |
スコットランド Grand Lodge of Scotland |
神奈川県橫浜市 | ロッジ?スター?イン?ザ?イースト Lodge Star in the East |
640 | http://www2.gol.com/users/lodge640 |
兵庫県神戸市 | ロッジ兵庫アンド大阪 Lodge Hiogo and Osaka |
498 | http://www.skirret.com/kobe/hiogo | |
マサチューセッツ Grand Lodge of Massachusetts |
東京都港區 | シニム?ロッジ Sinim Lodge |
||
プリンスホール?ワシントン? アンド?ジュリスディクション ディストリクトNo. 6[132] Prince Hall Washington and Jurisdiction District No. 6 |
青森県三沢飛行場 | オミサワ?ロッジ O'Misawa Lodge |
54 | http://omisawa54.org |
東京都橫田飛行場 | チェリーブラッサム?ロッジ Cherry Blossom Lodge |
42 | ||
神奈川県キャンプ座間 | プライド?オブ?ジ?オリエント?ロッジ Pride of the Orient Lodge |
55 | http://prideoftheorientlodge55.webs.com | |
神奈川県橫須賀海軍施設 | リベレーション?ロッジ Revelation Lodge |
97 | ||
神奈川県厚木海軍飛行場 | トーション?ロッジ Touchon Lodge |
106 | ||
山口県岩國飛行場 | ジェネシス?ロッジ Genesis Lodge |
89 | http://genesislodge89.org | |
長崎県佐世保[133] | 友達ロッジ(準備中) Tomodachi Lodge |
|||
人権インターナショナル Droit Humain International (DHI) |
東京都 | ソレイユ?ルヴァン Soleil Levant |
http://fm-fr.jp | |
グラン?オリアン?アラベ?エキュメニック[134] Grand Orient Arabe Œcuménique (GOAO) |
岐阜県岐阜市[135][136] | ロゲ?ラ?ルミエール?ドゥ?ソレイユ?ルヴァン Loge La Lumière du Soleil Levant (Respectable Loge de Recherche) |
日本グランドロッジの歴代グランドマスター(Past Grand Masters; PGM)の一覧。
イングランドのロッジが認証していない「非正規」ロッジと、フリーメイソン以外の秘密結社の區別は、しばしばあいまいである。
「非正規」派のグランド?ロッジとして有力なのは、フランスの「フランス大東社」(GODF)である。ただし、當初は英米係と相互承認関係にあった。同ロッジは従來のフランス?グランド?ロッジから獨立した勢力を統合し、1773年10月22日発足した。仏大東社は、英米係のロッジと違い、組織として政治活動に加わる者も少なくなかった(フランス革命では、フリーメイソン思想のかかわりが指摘される反麵、関係者が多數処刑されている。また、ロッジとしてはむしろアンシャン?レジームの立場で、革命は彼等の予想外の出來事だったとする研究もある[147]。従って、政治活動に加わっていても、組織だって革命に與したかどうかは議論がある)。
フランスでフリーメイソンリーが政治的影響を強めるのは19世紀後半、第三共和製期に入ってからである。政治活動を禁じた「正規派」と異なり、仏大東社は圧力団體としても機能した。
1877年9月13日、仏大東社は憲章を改訂して「至高の存在への尊崇と信仰」の義務規定を撤廃し、「良心の自由と人間性の確立」を新たな基本理念と定めた。これを基本理念の逸脫と見なした英係ロッジは、仏大東社の認証を取り消した。ただし、「正規派」メイソンの片桐三郎によれば、1867年、仏大東社がアメリカ?ルイジアナ州に設立したスコティッシュ?ライト評議會(上位階級授與のための組織、後述)が、同州のグランド?ロッジに管轄権を要求したため、米國係ロッジはこれを不服とするルイジアナ州のグランド?ロッジの要請に基づき、仏大東社の認証を取り消した事件があった。片桐によれば、英米係との対立はこの事件がきっかけであり、憲章改訂はだめ押しに過ぎなかったとしている[148]。その結果、仏大東社は「無神論者」のレッテルを貼られたが、これは信仰の自由?信仰しない自由を共に認めたものであり、信仰そのものの否定ではない。さらに、その後共産主義者の入會も認め、Arthur Groussier、フレッド?ツェラーなどグランドマスターになった者もいる。
また、フランスのロッジに女性會員(仏大東社自體は認めていない[149])やアフリカ係(黒人係)會員を認めたことも、「正規派」による非難の理由とされた。すなわち、當時の「正規派」が人種差別思想を多分に持っていたことを意味する。
現在でも、フランスでは仏大東社係のフリーメイソンリーが最大勢力である[150]。政治的には、19世紀末から20世紀初めに、カトリックとの対立の所産でもある政教分離推進に強い影響力を持った。そのため、1904年にはフランスはローマ教皇庁との國交斷絶に至った(現在は國交回復)。その後影響力を低下させたが、1936年の総選挙で人民戦線が勝利した背景にも、仏大東社の仲介があったという。戦後も、民族自決の立場からフランス植民地だったアルジェリア獨立を支持するなど、仏大東社は政治的発言を行っている(特定の支持政黨はないが、おおむね社會黨に近いとされる)。
仏大東社は、ベルギー大東社などとCLIPSASを設立している。「正規派」に比べて少數ではあるが、歐州や中南米を中心に約8萬人がこれに屬しているという。なお、「大東社」を名乗