鍋島焼(なべしまやき)は、17世紀から19世紀にかけて、佐賀藩(鍋島藩)において藩直営の窯で製造された高級磁器である。佐賀藩の支配下にあった肥前國有田?伊萬裏(佐賀県有田町、同県伊萬裏市)は日本における磁器の代表的な産地として知られるが、その中で大川內山(おおかわちやま、佐賀県伊萬裏市南部)にあった藩直営の窯では藩主の所用品や將軍家?諸大名への贈答品などの高級品をもっぱら焼造していた。これを近代以降「鍋島焼」または単に「鍋島」と呼んだ(伊萬裏焼の一様式と位置付け、「鍋島様式」と呼稱する場合もある)。鍋島焼の伝統は1871年(明治4年)の廃藩置県でいったん途絶えたが、その技法は今泉今右衛門家によって近代工芸として復興され、21世紀に至っている。
肥前國の有田?伊萬裏(佐賀県有田町、同県伊萬裏市)は日本の代表的な磁器生産地として知られる。陶磁器生産の先進地である中國では漢代末期には磁器が創始され、宋代以降は景徳鎮を中心にさまざまな磁器が生産されていたが、日本では長らく陶器や無釉の焼き締め陶が主流であり、磁器の生産が始まったのはようやく17世紀初頭のことであった。文祿?慶長の役に際し、豊臣秀吉や諸大名は當時の朝鮮から多數の陶工を日本(九州)へ連行し、彼らの技術がもとになって近世初期、九州各地に陶磁器産地が生まれた。高取焼、上野焼(あがのやき)、唐津焼などはいずれも朝鮮から渡來した陶工によって創始されたと伝えている。有田および周辺地域の窯で製造され、伊萬裏の港から出荷された伊萬裏焼も同様に朝鮮渡來の陶工の伝えた技術をもとに創始された。伝承では1616年(元和元年)、朝鮮出身の陶工?李參平が有田の泉山で白磁鉱を発見し、天狗穀窯で磁器の生産が行われるようになったという。窯跡の発掘調査の結果からは、最初に磁器が焼かれたのは天狗穀窯ではなく有田西部の窯であったことが明らかになっているが、いずれにしても、この時期(1610年代)、肥前國において日本の磁器生産が始まったということは定説となっている。
こうして生産が始まった伊萬裏焼とは別に、藩窯製品としての「鍋島焼」が作り始められた正確な時期や事情については、藩の公式の記録が殘っておらず、判然としない。伝承によれば鍋島焼は1628年(寛永5年)、有田の岩穀川內(いわやがわち)で創始されたとされ、1661年頃(寛文初年)、有田の南川原(なんがわら)に窯を移し、さらに1675年(延寶3年)、有田と伊萬裏の中間の山中にある大川內山(おおかわちやま)に移ったという。大正時代、東京日々新聞の記者であった大宅経三は佐賀藩の禦道具山役(藩窯の主任)の地位にあった副田(そえだ)家の過去帳を調べ、その調査結果を著書『肥前陶窯の新研究』(1921年)に発表している。同書によれば、鍋島焼は素性不明の浪人?高原五郎七(五郎八とも)が有田の岩穀川內(いわやがわち)で青磁を焼造し、佐賀藩の禦用を務めたのが起源であるという。この五郎七は、秀吉の家來とも朝鮮から渡來の工人ともいわれる半ば伝説上の人物で、藩のキリシタン取締りを避けて出奔してしまったと伝える。その後、1628年(寛永5年)、五郎七の教えを受けた副田喜左衛門日清という人物が禦道具山役となり、手明鑓(てあきやり)という武士待遇の身分で佐賀藩に仕えたとされる。
2010年にサントリー美術館で開催された展覧會「誇り高きデザイン 鍋島」の図録は、岩穀川內の鍋島藩窯の創始を1640年代末頃とし、寛文年間(1660年代)に大川內山に移転したとしている。同図録の説では藩窯自體は岩穀川內から南川原を経ずに直接大川內山へ移ったとし、南川原では一部の製品が作られていたが、後に藩窯に合流したものとみなしている[1]。
藩窯が岩穀川內にあった時代の製品としては、木瓜形(もっこうがた)、葉形、州浜形などの小型の色絵皿が殘っているが、今日「鍋島」と稱されている獨特の様式をもった磁器はおおむね大川內山窯の製品と見なされている。1952年(昭和27年)以降行われた大川內山窯跡の発掘調査の結果、出土した磁器片と伝世品の磁器とは一致するものが多く、鍋島の産地が大川內山であったことは學問的にも確認されている。ただし、鍋島には製作年を明記した作品が少なく(江戸時代末期には若幹の製作年銘入り製品がある)、同じ文様を長期間使うことが多く、年代による作風の変化を追うことは困難である。陶磁研究家の矢部良明は大川內山の製品を初期(1680年代)、盛期(1690年代から1750年頃まで)、後期(1750年頃から廃藩置県の1871年まで)の3期に區分している。
鍋島焼の歴史を語る際にしばしば引き合いに出される史料として、鍋島宗家に伝來した『有田皿山代官江相渡手頭寫』(ありたさらやまだいかんへあいわたしてがしらうつし)という文書がある。これは1693年(元祿6年)、2代藩主鍋島光茂が皿山代官に與えた手頭(指示書)である。現存する文書はその寫しであるが、盛期鍋島焼に関わる數少ない公的史料として重視されている。この『手頭』は近年皿山(藩窯)の活動が低調であるとして、以下のように厳しい注文をつけており、藩の皿山に対する高い関心が伺われる。
以上のように、佐賀藩としては藩窯の製品の質を常に高く保ち、不良品を世に出さないことを方針とし、技術の漏洩を防ぐため、藩內の他窯の職人といえどもみだりに藩窯に出入りすることを禁じていたことが分かる。
大河內藩窯の禦細工場(磁器工房)は、細工方11名、畫工9名、撚細工4名、下働き7名の31名から構成されていた。他に「禦手伝窯焼」として本手伝10名、助手伝6名がおり、その他禦用赤絵屋、禦用鍛冶屋、禦用土伐、禦用石工、薪方頭取などの諸職が存在した。これらの職人によって磁土の精製、成形、下絵付け(染付)、本焼き、上絵付け(色絵)、上絵の焼き付けなどの工程が分業で行われ、さらに原料の磁土を採掘する者、窯を焚くための薪を供給する者など、多くの人材が関わっていた。色絵(赤絵)の場合、下絵付け(呉須というコバルト質の絵具を用いる。焼きあがると青色に発色する)と上絵付け(下絵の上に赤、黃、緑の色絵を施し、再度焼く)は完全な分業であった。すなわち、本焼きまでの工程は大川內の藩窯で行われ、上絵付けは有田の赤絵町で行われた。禦細工場の職人たちは身分が保証される代わりに、製品の質の確保と、技術漏洩防止のため、藩からの厳しい統製下に置かれていた。藩窯が有田や伊萬裏の中心部から遠く離れた山間の大川內に置かれたのも、情報漏洩を防ぐためであったと言われている。
大川內藩窯は1871年(明治4年)の廃藩置県によってその歴史を閉じたが、鍋島の技法と伝統は赤絵町の今泉今右衛門家によって復興?継承されている。9代今泉今右衛門は廃藩置県の2年後の1873年(明治6年)に沒し、10代今右衛門(1847 - 1927)は26歳で家督を継いだ。従來の鍋島焼では下絵付け?本焼きの工程は大川內で、上絵付けの工程は赤絵町でそれぞれ分業していたが、10代今右衛門は自ら登り窯を築き、成形、下絵付け、本焼きから上絵付けまで自家工房での一貫生産體製を確立した。11代今右衛門(1873 - 1948)は皇室禦用品などを製作し、従來の鍋島の主力であった皿類だけでなく、近代生活に対応したさまざまな器種の製品を手掛けた。12代(1897 - 1975)は現代的デザインを取り入れた作品を作り、12代の時代に設立された色鍋島技術保存會は國の重要無形文化財「色鍋島」の保持者として認定を受けた。12代の沒後、重要無形文化財「色鍋島」の指定は1975年にいったん解除されたが、1976年、13代今右衛門(1926 - 2001)を代表者とする色鍋島今右衛門技術保存會を保持団體として再指定された。13代は個人としても重要無形文化財保持者(いわゆる人間國寶)に認定されており、酸化ウランを呈色剤とする「薄墨」という技法を開発した。13代の沒後、2002年には14代今右衛門(1962 - )が襲名している。14代は伝統を継承しつつ、近世以來の「墨はじき」の技法を深化させている。
將軍?大名への贈答用高級品として作られ、一般に出回っていなかった鍋島焼が鑑賞陶磁として注目されるようになるのは大正期以降である。鍋島焼を紹介した最初期の文獻とされるのは、イギリス人フランシス?ブリンクリー(1841 - 1912、軍人出身のジャーナリスト)が1901 - 02年に刊行した『日本と中國』(Japan and China: Its History, Arts and Literature)だとされている。物理學者?貴族院議員の大河內正敏(1878 - 1952)は陶磁研究家としても知られ、彩壺會という研究會を主宰。1916年(大正5年)に駿河町(日本橋)三越にて「柿右衛門と色鍋島」という展覧會を開催するとともに、同年同じく『柿右衛門と色鍋島』という題名の講演録を出版している。これは日本人によって書かれた最初の本格的な鍋島焼紹介書であり、以後の研究にも同書の影響が大きい。
大川內藩窯の主力製品は皿、向付などの食器類であり、近世に他の諸窯で盛んに焼かれた茶陶はほとんど焼いていない(ただし、香合の作例が若幹ある)。壺、瓶子のようないわゆる「袋物」や蓋付碗、香爐のような製品も現存するが、いずれも數は少なく、主力は皿類である。鍋島の皿は木盃形(もくはいがた)と稱される獨特の形狀のもので、側麵から見ると高台(こうだい)が高く、高台から縁へ張りのあるカーブを描く。皿は円形のものが主で、直徑が1尺、7寸、5寸、3寸に規格化されている。特に直徑1尺(約30cm)の大皿は現存品が少なく「尺皿」と稱されて珍重されている。皿には高台周囲に短い腳を付した三腳皿や、八角皿、花形などの変形皿もある。向付や小皿は同文様のものが5客、10客などのセットで作られた。一方、尺皿には互いに同模様のものが少なく、1點生産だったものと思われる。
「色鍋島」の名で知られる色絵のほか、以下の技法が用いられている。
色絵は、染付で文様を描いた器の上に上絵付けし、再度低火度の酸化炎で焼成するものである。鍋島の色絵は赤、黃、緑の3色のみを用いることが原則で、まれに黒や紫も使われるが、伊萬裏に見られるような金彩は原則として使われない。中國や日本の他窯では青磁釉は単獨で使用されることが原則だが、鍋島では「青磁染付」「青磁色絵」のように青磁を染付や色絵と併用したものも多い。
文様は更紗文、雪輪文のような幾何學的なもの、植物、野菜、器物などを図案化して描いたもの、風景などを描いた絵畫的なものなど多岐にわたるが、いずれも純和風のデザインであることが特色で、この點は中國?景徳鎮窯を範とした伊萬裏焼と區別されるところである。大根、人參、茄子のような、寓意的?象徴的意味を持たない卑俗な題材も大膽に図案化している。盛期の皿類には文様を周縁部にのみ表して、中心部を文様のない白抜きとしたデザインのものがあり、藩庁の意を汲んで斬新なデザインを工夫した結果ではないかと言われている。文様は鬆葉、青海波などの細かい線まで正確に描かれ、染付の濃み(だみ)は1點のにじみやムラも殘らないように完璧に塗られている。5客、10客などのセットの食器では、各器に完璧に同じ文様が繰り返されている[2]。
皿の裏文様は、染付一色で唐花文、七寶つなぎ文などを規則正しく三方に配するものが典型的である。鍋島皿の特徴は、表の図案の天地と裏の文様の天地が連動している點である。皿の裏麵は3つの文様単位が等間隔に配置され、それらが形作る三角形の角の1つが皿表の畫麵の上側に一致するように配置される。高台の側麵には櫛歯文を表すものが多い。高台內には銘、界線などを入れず、目跡なども殘さず、白一色に仕上げるのが通例である[3]。