2005 (265)
2011 (1)
2012 (354)
2013 (600)
上記にもあるように、鷗外は東京帝國大學で近代西洋醫學を學んだ陸軍軍醫(第一期生)であった。醫學先進國のドイツに4年間留學し、帰國した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任をつとめた。その試験は、當時の栄養學の最先端に位置していた。日清戦爭と日露戦爭に出征した鷗外は、小倉時代をのぞくと、つねに東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍醫総監(中將相當)に昇進するとともに陸軍軍醫の人事権をにぎるトップの陸軍省醫務局長にまで上りつめた。
ビタミンの存在が知られていなかった當時、軍事衛生上の大きな問題であった腳気の原因について、醫學界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に腳気に効果があるとされた麥飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麥飯と腳気改善の相関関係は(ドイツ醫學的に)証明されていなかったため、科學的根拠がないとして否定的な態度をとり、麥飯を禁止する通達を出したこともあった。
日露戦爭では、1904年(明治37年)4月8日、第2軍の戦闘序列(指揮係統下)にあった鶴田第1師団軍醫部長、橫井第3師団軍醫部長が「麥飯給與の件を森(第2軍)軍醫部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎「日露戦役従軍日誌」)との記録が殘されている(ちなみに第2軍で腳気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」はいろいろな解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25萬人の腳気患者が発生し、約2萬7千人が死亡する事態となった。
腳気問題について鷗外は、陸軍省醫務局長に就任した直後から、臨時腳気病調査會の創設(1908年?明治41年)に動いた[64]。
腳気の原因解明を目的としたその調査會は、陸軍大臣の監督する國家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)がつぎ込まれた。予算に製約がある中、腳気ビタミン欠乏説がほぼ確定して廃止(1924年?大正13年)されたものの、その後の腳気病研究會の母體となった。鷗外が創設に動いた臨時腳気病調査會は、腳気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある[65]。
反麵、「その十六年間の活動は、腳気栄養障害説=ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある[66]。
なお、晩年の鷗外は、同調査會で調査研究中の「腳気の原因」について態度を明らかにしなかった[67]。
陸軍の腳気慘害をめぐって、鷗外の責任に関しての議論はたえない。批判の一方擁護論もあり、鴎外は腳気被害をなくすため腐心し、後世に貢獻したとする。そのうち鷗外への批判として、(副食物が貧弱な)米食を麥食に変えると腳気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麥食を排除しつづけた姿勢について激しい非難がある[68]。また、鴎外が岡崎桂一郎著「日本米食史 - 附食米と腳気病との史的関係考」(1912)に寄せた序文で「私は臨時の腳気病調査會長になって(中略)米の精粗と腳気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鴎外は腳気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを排除、細菌原因説に固執して、調査會の結論を遅らせていたとの指摘もある[69]。 鷗外を擁護するものとして、以下の見解がある[70]。
以上を端的にいえば、鷗外が腳気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。つづけて鷗外への批判が起こった理由として、
が挙げられた。