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腳気問題について鷗外

(2013-12-25 04:23:53) 下一個

軍醫として[編集]

軍服姿の

上記にもあるように、外は東京帝國大學で近代西洋醫學を學んだ陸軍軍醫(第一期生)であった。醫學先進國のドイツに4年間留學し、帰國した1889年(明治22年)8月–12月には陸軍兵食試験の主任をつとめた。その試験は、當時の栄養學の最先端に位置していた。日清戦爭日露戦爭に出征した外は、小倉時代をのぞくと、つねに東京で勤務、それも重要なポジションに就いており、最終的に軍醫総監中將相當)に昇進するとともに陸軍軍醫の人事権をにぎるトップの陸軍省醫務局長にまで上りつめた。

ビタミンの存在が知られていなかった當時、軍事衛生上の大きな問題であった腳気の原因について、醫學界の主流を占めた伝染病説に同調した。また、経験的に腳気に効果があるとされた麥飯について、海軍の多くと陸軍の一部で効果が実証されていたものの、麥飯と腳気改善の相関関係は(ドイツ醫學的に)証明されていなかったため、科學的根拠がないとして否定的な態度をとり、麥飯を禁止する通達を出したこともあった。

日露戦爭では、1904年(明治37年)4月8日第2軍の戦闘序列(指揮係統下)にあった鶴田第1師団軍醫部長、橫井第3師団軍醫部長が「麥飯給與の件を森(第2軍)軍醫部長に勧めたるも返事なし」(鶴田禎次郎日露戦役従軍日誌」)との記録が殘されている(ちなみに第2軍で腳気発生が最初に報告されたのは6月18日)。その「返事なし」はいろいろな解釈が可能であるが、少なくとも大本営陸軍部が決め、勅令(天皇名)によって指示された戦時兵食「白米6合」を遵守した。結果的に、陸軍で約25萬人の腳気患者が発生し、約2萬7千人が死亡する事態となった。

腳気問題について外は、陸軍省醫務局長に就任した直後から、臨時腳気病調査會の創設(1908年?明治41年)に動いた[64]

腳気の原因解明を目的としたその調査會は、陸軍大臣の監督する國家機関として、多くの研究者が招聘され、多額の予算(陸軍費)がつぎ込まれた。予算に製約がある中、腳気ビタミン欠乏説がほぼ確定して廃止(1924年?大正13年)されたものの、その後の腳気病研究會の母體となった。外が創設に動いた臨時腳気病調査會は、腳気研究の土台をつくり、ビタミン研究の基礎をきずいたと位置づける見解がある[65]

反麵、「その十六年間の活動は、腳気栄養障害説ビタミンB欠乏症(白米原因)説に柵をかけ、その承認を遅らせるためだけにあったようなものであった」と否定的にとらえる見解もある[66]

なお、晩年の外は、同調査會で調査研究中の「腳気の原因」について態度を明らかにしなかった[67]

腳気慘害をめぐる議論[編集]

陸軍の腳気慘害をめぐって、外の責任に関しての議論はたえない。批判の一方擁護論もあり、鴎外は腳気被害をなくすため腐心し、後世に貢獻したとする。そのうち外への批判として、(副食物が貧弱な)米食を麥食に変えると腳気が激減する現象が多く見られたにもかかわらず、麥食を排除しつづけた姿勢について激しい非難がある[68]。また、鴎外が岡崎桂一郎著「日本米食史 - 附食米と腳気病との史的関係考」(1912)に寄せた序文で「私は臨時の腳気病調査會長になって(中略)米の精粗と腳気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鴎外は腳気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを排除、細菌原因説に固執して、調査會の結論を遅らせていたとの指摘もある[69]外を擁護するものとして、以下の見解がある[70]

  • 陸軍の腳気慘害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任をおう大本営陸軍部野戦衛生長官日清戦爭?石黒忠悳日露戦爭?小池正直)ではなく、隷下の一軍醫部長を矢麵に立たせることへの疑問。
  • 外が白米飯を擁護したことが陸軍の腳気慘害を助長したという批判については、日露戦爭當時、麥飯派の寺內正毅陸軍大臣であった(麥飯を主張する軍醫部長がいた)[71]にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦爭と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また腳気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。その別のものとは、白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麥飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる[72]
  • 外の「陸軍兵食試験」が腳気発生を助長したとの批判については、兵食試験の內容(當時の栄養學にもとづく栄養試験であり、腳気問題と無関係の試験)を上官の石黒にゆがめられたためとの見解を示した[73]

以上を端的にいえば、外が腳気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。つづけて外への批判が起こった理由として、

  • 海軍の兵食改良を批判しすぎたこと。
  • 論理にこだわりすぎて學術的権威に依拠しすぎたこと。
  • 日清戦爭時に上官の石黒に同調したこと[74]

が挙げられた。

年譜[編集]

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