日本人のノーベル賞受賞者
(2012-10-09 11:00:53)
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日本人のノーベル賞受賞者
物理學賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由
1949年(昭和24年) 湯川秀樹 京都帝國大學理學部卒、理學博士(大阪帝國大學)
中間子の存在の予想
1965年(昭和40年) 朝永振一郎 京都帝國大學理學部卒、理學博士(東京帝國大學)
量子電気力學分野での基礎的研究
1973年(昭和48年) 江崎玲於奈 東京帝國大學理學部卒、理學博士(東京大學)
半導體におけるトンネル効果の実験的発見
2002年(平成14年) 小柴昌俊 東京大學理學部卒、ロチェスター大學大學博士課程修了 (Ph.D.)、理學博士(東京大學)
天體物理學、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢獻
2008年(平成20年) 小林誠 名古屋大學理學部卒、理學博士(名古屋大學)
小林・益川理論とCP対稱性の破れの起源の発見による素粒子物理學への貢獻
益川敏英 名古屋大學理學部卒、理學博士(名古屋大學)
小林・益川理論とCP対稱性の破れの起源の発見による素粒子物理學への貢獻
化學賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由
1981年(昭和56年) 福井謙一 京都帝國大學工學部卒、工學博士(京都大學)
化學反応過程の理論的研究
2000年(平成12年) 白川英樹 東京工業大學理工學部卒、工學博士(東京工業大學)
導電性高分子の発見と発展
2001年(平成13年) 野依良治 京都大學工學部卒、工學博士(京都大學)
キラル觸媒による不斉反応の研究
2002年(平成14年) 田中耕一 東北大學工學部卒、東北大學名譽博士
生體高分子の同定および構造解析のための手法の開発
2008年(平成20年) 下村脩 舊製長崎醫科大學附屬薬學専門部卒、理學博士(名古屋大學)
緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科學への貢獻
2010年(平成22年) 鈴木章 北海道大學理學部卒、理學博士(北海道大學)、北海道大學工學部名譽教授
クロスカップリングの開発
根岸英一 東京大學工學部卒、ペンシルベニア大學博士課程修了 (Ph.D.)、パデュー大學教授
クロスカップリングの開発
生理學・醫學賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由
1987年(昭和62年) 利根川進 京都大學理學部卒、カリフォルニア大學サンディエゴ校博士課程修了 (Ph.D.)、マサチューセッツ工科大學教授
多様な抗體を生成する遺伝的原理の解明
2012年(平成24年) 山中伸彌 神戸大學醫學部卒、カリフォルニア大學サンフランシスコ校博士課程修了、京都大學再生醫科學研究所
様々な細胞に成長できる能力を持つiPS細胞の作製
文學賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由
1968年(昭和43年) 川端康成 東京帝國大學文學部卒
『伊豆の踴子』『雪國』など、日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による敘述の卓越さに対して
1994年(平成6年) 大江健三郎 東京大學文學部卒
『萬延元年のフットボール』など、詩的な言語を用いて現実と神話の混交する世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見る者を當惑させるような絵図に描いた功績に対して
平和賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由
1974年(昭和49年) 佐藤栄作 東京帝國大學法學部卒
非核三原則の提唱
経済學賞 [編集]2012年10月現在、ノーベル経済學賞を受賞した日本人はいない。
日本にゆかりのあるノーベル賞受賞者 [編集] 物理學賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由/日本との関係
2008年(平成20年) 南部陽一郎 東京帝國大學理學部卒、理學博士(東京大學)
素粒子物理學における自発的対稱性の破れの発見
日本にて生まれ育ち、日本の大學および大學院を卒業・修了している。ノーベル賞として評価された研究は渡米後のものだが、まだ日本國籍を有していた。その後1970年(昭和45年)に49歳でアメリカ國籍を取得した際に日本國籍を失っており、公式にはアメリカ人の受賞者として扱われる。
化學賞 [編集]受賞年 名前 學歴/受賞理由/日本との関係
1986年(昭和61年) 李遠哲 國立台灣大學卒、博士(カリフォルニア大學バークレー校)、日本學士院客員
化學反応の素過程についての研究
大日本帝國領だった台灣出身の台灣人。幼少時は日本語を話した。舊帝國大學のひとつ、台北帝國大學を前身とする國立台灣大學を卒業後、國立清華大學大學院で學び、カリフォルニア大學バークレー校で博士號を取得。
1987年(昭和62年) チャールズ・
ペダーセン セント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジ卒
高選択的に構造特異的な相互作用をする分子(クラウン化合物)の開発と応用
大日本帝國の保護國だった大韓帝國の東萊郡(現在の大韓民國・釜山広域市)にノルウェー人の父と日本人の母との間に生まれ、良夫という日本名も持つ。8歳まで朝鮮で育ち、教育を受けるために長崎県を経て、10歳で神奈川県橫浜市に移り、18歳まで同市にあるインターナショナル・スクールで學んだ後、アメリカに渡った。後にアメリカに帰化した。