2005 (265)
2011 (1)
2012 (354)
2013 (600)
尖閣諸島沖で日本の海上保安庁の巡視船に中國漁船が衝突した事件が尾を引いている。
日本はすでに魚船を中國に返還し、船長も9月24日に釈放した。日本政府はこれで決著をつけたつもりだったようだが、中國ではますます日本を非難する聲が高まり、中國政府は日本に対して謝罪と賠償を要求してきた。
しかし振り返ってみれば、尖閣諸島をめぐる問題はこれまでに何度も起きている。2004年3月には中國人活動家7人が尖閣諸島に上陸し、沖縄県警察本部が出入國管理法違反の疑いで現行犯逮捕している。だが、それでも今回ほど大騒動にはならなかった。
では、過去の事件と今回の事件は何が違うのか。どんな要因があってここまでこじれることになったのか。歴史をひもときながら、それを考えてみたい。
まずは以下の年表を見てほしい。
この年表からわかるように、問題の発端は1895年の下関條約にある。日清戦爭に勝利した日本が、この條約によって中國から台灣を割譲し、尖閣諸島を沖縄県に編入したのである。
日本は台灣県をつくったが、そこに尖閣諸島を組み入れることはしないで、沖縄県に含めていた。つまりそれ以前の尖閣諸島は台灣領だったわけで、これは非常に重要なポイントである。台灣領であったという事実が中國が領有権を主張する根拠になっているからだ。
しかし外務省の見解はこれと異なり、尖閣諸島を沖縄に編入したのは同じ1895年であっても下関條約を締結した4月よりも3カ月前の1月であったから、両者は獨立した事象である、という。
日本政府は10年近く尖閣諸島を調査し、どこにも屬さない領土だということを確認した上で(たまたま)1895年1月14日に閣議決定して沖縄県に編入した、という。しかしこれは非公開の閣議決定であり、國會での決定でもなければ諸外國が知りうるような形で公表もしていないわけで、島根県議會の竹島領有宣言よりも國際的な認知は得にくい。
台灣側の一部にしてみれば、清國敗戦の色濃い當時の狀況、そして4月には日本に併合された身としては、つべこべ言える環境ではなかったということになる。今の中國政府(共産黨)は當時存在していなかったが、台灣は中國の領土だという立場であるから、この台灣の言い分を都合良く“冷凍・保存”している。
中台統一が実現すれば北京がこの論理を持ち出す可能性が高いと認識しておくべきだ。尖閣問題では中台は意識が一致しやすいのはこのためである。
その後、日本領となった尖閣諸島は一人の日本人・古賀辰四郎に30年リースされた。古賀家が有償で払い受けたことから、尖閣諸島は私有地になる。そこでは鰹節(かつおぶし)工場などが操業されていたが、1940年に工場が閉鎖された後は無人島と化していた。