こんなにも時間が経ったというのに、君はきっと、笑って生活しているのかもしれない。僕もまた、今日という日が來るまでは、きっと、きっとあの事なんて忘れながら、笑って生活を続けていたのかもしれない。 僕は今日、5年も慣れしたしんだ、このアパートを出て行く事に決めた。 押し入れの奧とか、機の引き出しの中とか、本棚の整理をしていた時に、この手紙は見つかった。それは、僕が昔、ここに來る前にあの人から貰った戀文だった。 僕が出て行く直前に、幼なじみだったあの人から貰った戀文。それは、僕の心に広がる淡い甘酸っぱい思い出と一緒に、羞恥の念を引きずり出した。 小泉八雲が愛した街、鬆江から、遠い東京に出てきたのは僕自身の夢を葉えるため。僕自身が夢に溺れ、やりたい事が沢山あった時だ。結局、僕もあの人の事が好きだったけども、あの時の僕にとっては夢だけが僕自身であり、夢だけが僕の全てでもあったから、この戀文は白い封筒に入れられたまま、封を開ける事なく、そのままになっていた。 幼かったあの人の橫顔を見る度に、ドキドキとさせられた。髪をかき上げる仕草や、少しだけ大人っぽい微笑みを返す時は、僕は本當にどうしようも無くなっていた。 でも、僕の夢がそれを邪魔した。きっと、あの人は泣いたんだろう。 でも、僕の夢がそれを無視しろと言い放った。その時は僕も泣いた。 僕の夢は破れ、この5年の間に職を転々とした。夢を追い求めて、その間にアルバイトをし、夢破れ、アルバイトから正社員。でも、小さな會社は荒波に飲まれてすぐに沈沒した。僕は今現在、辛うじて殘っているお金を切り崩して生活をしていた。そして、そのお金が底をつかないうちに、実家のある、僕に戀文をくれたあの人のいる、鬆江に戻ろうと思い、整理をしていた。 何処かを整理していた時に出てきたこの戀文が、僕を呼びよせたのかもしれない。きっと、いや、僕自身が鬆江に帰りたいと願ったのかもしれない。僕の夢は実際に破れ、働くあても無い。何とか逆行に負けないように、負のイメージが付いているこのアパートから逃げ出すように出て行く僕を、この戀文が救ってくれた。 この戀文は、まだ開けていない。 ただ、顔を真っ赤にして最後の最後に渡してくれた、あの人を想う度に、僕は本気で會いたいと想っていた。心から會いたいと願っていた。 例え、すでにあの人に、僕以外の想い人がいようとも構わなかった。ただ、會って話しをして、お互いの空白の5年間を埋めたかった。 まだ、東京は桜が咲いていない時期だった。桜が咲き始めれば、丁度、鬆江を出てきた時と同じ日になる。 僕の心は見事に浮かれていた。 僕は、あの人だけを見ていた。 結局、最低限の荷物だけにした。帰るにはそれが良い。銀行から預金を全て卸し、口座を閉じて、売れる物は全て売った。そうしたら、小さな鞄一個に全てが収まった。僕が東京に出てきて、得た物はきっと、鞄一個分なのだろう・・・・。 この鞄の中には勿論、あの戀文が入っている。まだ開けていなかった。中身を読む勇気が無かった、この5年間。読んでしまったら、僕は夢を捨てて、あの人の元へと帰っていただろう。何かも放り投げて。でも、僕は夢を捨てきれずに東京での5年を過ごした。だから、あの人の想いがこもった戀文を読まなかった。白の封筒を開ける事が出來なかった。 夢を求めてやってくる東京も、今日で最後だった。何もかも全てを忘れて、鬆江で最初からやり直し、ゆっくりと暮らしたかった。ゆっくりと暮らして、ゆっくりとあの人の5年間を聞いて、ゆっくりと僕の5年間を話したかった。 綺麗に整理された街並み。ビルが大手を振って夢を見てこの場所に來た人々を威嚇する。夢を葉えた人々。夢を葉える事が出來なかった人々。滅茶苦茶になる程に人生の執著と終著を見る事が出來る場所。僕にはこの場所で生きる事が出來るほどのバイタリティなんて無かった。夢を葉える事によって優雅に暮らせる、夢を追い求める事によって、自分自身を納得させ、自分自身の安息を求められる。でも、それは、夢を葉えられないで、必要最低限の暮らし、夢を追い求め過ぎて、くたくたに疲れて果てて麻痺してしまい、安住の地なんて所詮は夢物語なんだと、煙草を吹かしながら自棄になれる場所でもあった。 僕は結局、両方から抜け出してしまった。ストイックになればなる程に、どっちかに転ぶ事が出來る。でも、東京って場所は抜け出してしまった人には優しくない。中途半端に生きてしまった僕には重すぎる場所だった。僕はストイックになんてなれなかったんだ。こうして、空を底から見上げているんだけの生活に終著してしまった。 5年前の羽田。僕がここに來た時は緊張感が漂っていて、僕の中の希望とがんじがらめになって、僕を奮い立たせた場所。 5年後の羽田。僕が今、こうして立っている場所は、色々な人々に混じり、僕のため息をしっかりと吸収していく場所。 僕はこうして東京から離れた。地上を飛び立つ飛行機から見える青空は、僕の5年間を責め続けるのと同時に、ひっそりと慰めてくれた。 僕はゆっくりと眠りについた。5年前、東京に來た時もこうして眠りについた。あの時も、この青空は責め続け、慰めてくれた。 夢を見た。 鬆江の懐かしい街並み。僕が幼少の頃から過ごした懐かしい場所。 アルバイト帰りの朝帰り、まだまだ寒くて。寒くて寒くて、顔に當たる風が痛くて、それに、ここを出て行くんだという感傷。 空港までわざわざ來てくれた、あの人の顔。 今にも泣き出しそうな顔。 「向こうに著いたら、見てね・・・・」 と言ったきり泣き出しそうな目をして、顔を赤らめて俯いてしまったあの人。 その仕草だけで、これが戀文だとわかった瞬間の歯がゆさと、殘して行ってしまう僕の不甲斐なさと若さ。 今でも悔やまれる。 でも、僕は、その時は決意したんだ。この戀文を見ないで大切にしまっておこうと。 じゃないと、優柔不斷な僕は、思い出してしまい、どうしようもなくなってしまうから。 僕は弱い人間だから、あの人が渡してくれたこの戀文を読んでしまうと、僕はきっと・・・・。 僕はこの戀文とあの人への戀心と、鬆江への想いを何処か遠くへと、追いやったんだ。 自分自身の決意を貫くために・・・・・。 揺らぐことの無いように・・・・。 僕はそこで起き、思い出したように鞄から白い封筒を取りだし、開けた。 読んだ瞬間に、僕は場所を考えずに泣いてしまった。 止まらない涙。 あの人の心が、想いがこもった文麵。 心震わせる想い。 それは紛れもない戀文。 鮮明に思い出される。 あの人の聲や、手を繋いだ時の気持ち、柔らかな匂い。 一緒に通った、學校までの道のり。 僕にとって、それがどんな結果であろうとも、あの人に會いたいと強く想わせるには十分な文麵だった。 幼なじみだったからという理由だけで、僕の側にいたわけじゃないん。 しっかりと僕の心に屆く、この淡い想い。 5年もの間、決して思い出す事も無いと思っていたのに、こうして、鬆江が近付き、5年前の戀文を読む事によって広がる、極彩色の風景。 心の底から、會いたいと願った。 心の底から、鬆江に帰るんだと思った。 東京と違って鬆江は暖かだった。東京と違って何処か幻想的な、しんみりとした暖かさがあって、僕の心をゆっくりと氷解させる。僕の記憶をゆっくりと氷解させる。 僕はまず何処に行くか思案する。何処に行っても気まずい事には変わりない。お金がある事にはあるけど、ホテルとか、旅館とかで休むのもおかしいと感じた。やっぱり、家に帰るのが妥當だし、それが當たり前とも思った。でも、高校卒業後、すぐに家を出た人間を家族は迎えてくれるだろうか? きっと、迷惑そうな顔をするかもしれない。そう思うと家に帰るのが億劫だった。 僕はあてもなく、兎も角、歩き出した。行く前にあった希望に満ちた、それこそ、ここを出て東京に行く5年前のような懐かしいような気持ちが溢れていたのに、今となっては、それよりも強いネガティブな気持ちで一杯だった。 父親は普通のサラリーマンだった。至って普通。働いて、家族を養う事が當たり前と感じている極々、普通で、何処にでも溢れている父親だった。 高校時代の僕は夢に溢れ、東京から出てくる色々な物に觸発され、夢に溺れ、夢にすがる日々を送り、普通のサラリーマンだった父親とは常にぶつかりあっていた。 僕は東京の発する『成功』の匂いに惑わされ、夢だけを見つめる直向きさで父親に猛反発した。普通のサラリーマンだった父親にとっては、とても理解しがたい存在だったはずだ。実際、僕自身も父親の事なんて理解したいとも思わなかった。いや、思ったら負けだとさえ思っていた。 絶対に成功してみせると息巻いて出て行ったは良いけど、結局、このざまだ。僕は自分自身の弱さを確信していた。でも、それを認めるには、あの時は幼すぎた。 僕はふらふらと彷徨う。そのうち陽は傾き、辺りには夜の匂いが漂う。東京の夜とは違う様を見せてくれる。鬆江の夜は東京の騒々しい夜に比べるととても靜かで、僕は、東京で過ごした5年間を思い出さずにはいられなかった。あんなにも苦しい思い、あんなにもただ、真っ直ぐな思いだったのに、一つの事が失敗すると鎖のように連鎖的に崩れ落ちていく・・・・そんな東京の殘酷さが僕の體に染みついていて、鬆江の夜はそんな僕を受け止めるように、しっかりと撫でてくれる。 僕は漸く、鬆江に、あの人がいる、この場所に帰ってきたと実感出來た。 僕はいつのまにやら東京に惑わされ、鬆江のこの靜けさを忘れていた。 でも、漸く思い出す事が出來た。 僕は決心した。もう逃げる事も無い。鬆江に帰ってきたのだから、僕は、僕が生まれ、高校卒業まで育てて貰った、あの家に帰る事を決めた。 夢は破れ、定職も著かずに、こうして著の身著のままの狀態で帰ってきた僕を両親はどう見るだろう? 落膽するのだろうか? それとも、『やっぱり、俺の言った事は正しかった』と思うのだろうか? 例え、それがどんな結果になっても構わなかった。何はともあれ、家に帰る決心をした。 何処かで引っかかる心のくさび。少なくとも父親とは相成れない事がわかっていた。父親の言う事も今となっては理解出來るけども、それは何処か奇妙で、疑問や反論をしたくなるような物があった。それは、僕がまだ幼いからなのかもしれない。 何処かで朝になるのを待つのも良かった。でも、ここでグダグダするときっと決心は鈍り、あの人に會わないと、でも、その前に両親に會って、謝らないと・・・。勝手に出て行き、勝手に帰ってきた馬鹿な僕自身の事を、會って、謝らないと。 タクシーでも拾ってしまえば、すぐに著くのだろうけども、今の僕は歩きたい気分だった。東京とは違う鬆江の夜をしっかりと堪能したかった。ちょっとでも時間を消費しておきたかった。 本當に不思議な気分だった。 高校生の時は勿論、夢の事もあったけども、このちょっとした片田舎気分で、それも、観光客相手の商売を中心にしているこの街が嫌いだった。同じ日本人なのに、何処か媚びているような、そんな気持ちがあって、僕の幼心がそれを嫌悪していた。 そして、東京に出て行き、物の見事に夢は破れて、何度も職を変えて、最初のうちは逃げるように鬆江に帰ろうと思ったけども、あの人の戀文のお陰で色々な事を考えている。ただ、帰るためだけに鬆江に來たんじゃなくて、あの人に會うために鬆江に帰ってきたと思うと、心の奧底から、弾むような気持ちになり、どことなく楽しかった。 ゆらゆらと見える街が見せる光りの束。 水麵に映る姿を揺らし始める。 これからの事は決して、楽しい事じゃないんだろうけども、それも一種のイベントのような感覚で、心が身軽に乗り切れるような気がした。 なんだか、とても緩やかな気分で、鬆江がそうさせているのか、それとも、あの人の住む街に來た事が、そうさせているのか・・・・。僕には解らなかったけども、帰ってきて、本當に良かったと思っている。 こんなにゆっくりと歩いた事なんて一度も無かった。それは、5年前の鬆江でも、東京でも同じで、ゆっくりと歩いた事なんて無かった。 こんなにゆっくりと夜空を見た事なんて無かった。こんなにゆっくりと、こんなにゆっくりとした事なんて無かった。いつだって、がむしゃらに生きて、滅茶苦茶に生きてきた。こんなにも身軽な気分で、ゆっくりと、しっかりと生きた事なんて、無かった・・・・。 程なく僕の実家に著く。5年前と殆ど変わらない街並み。実家の並び。相変わらずゆっくりとした空気は澄んでいて、これから起こる事の重みなんて、何処にも存在しないぐらいに全ては穏やかだった。 ほんの少し、緊張感を感じながら、インターホンを押す。 すぐに母親の聲が聞こえる。 程なく玄関のドアが開く。 5年ぶりの母親との再會。 僕は久々に母親の顔を見た。少しだけ老けたような気がする。5年という年月はしっかりと刻まれている顔だった。 母親は固まったようなそぶりを見せ、すぐにオーバーリアクションを取って、「よく帰ってきたね、おかえり」と言った。母親の目尻にほんの少しだけ、涙が見えた。 僕はなんだか照れくさく、「・・・ただいま」と、苦笑しながら言った。 母親によって居間に通される。なんだかヘンな気分だった。でも、妙に晴れ晴れしい気分だった。 以外だったのが、父親の反応だった。 そんなに感情を見せる人じゃないのに、まるで、死んだ人間が生き返ったかのようなリアクションを見せた。オーバーリアクション気味な夫婦なのだと、5年ぶりに顔を合わせた両親を見て、初めて気がついた。 「・・・生きていたのか」 父親は煙草を吸いながら、言った。煙草を一回、吸い、吐き出してから続けざまに、「・・・生きていたんだな・・・・・良かった」と、言った。 父親のその言葉を聞いて、僕は漸く落ち著き、そして、初めて、この家に馴染んだ。 母親と父親は僕のいない5年間を喋らなかった。僕が何処で何をしていたのかも、聞かなかった。 ただ、「良く帰ってきた」、「生きていて良かった」と、何度も何度も言った。 5年もの間、一回も連絡をした事は無かった。そもそも連絡先さえ教えなかったし、出て行く時も、ノートのページを一枚、破いて、そこに『出て行く』とだけ書いた置き手紙なんて言えないようなシロモノだけだったのだから・・・・・。 少し、拍子抜けだった。本當はこっぴどく怒られるかと思っていた。でも、実際は違った。母親は5年間も出て行ったきりで生きているのかどうかもわからない息子が帰ってきた事に対してはしゃいで、出前の壽司を注文していた。父親は僕に煙草を勧め、僕が一本貰うとライターで火を點けてくれた。 母親は兎も角、父親と僕の間には大きな溝が開いていると思っていた。決して埋まる事の無い、あまりにも大きすぎる溝。父親と僕は互いに理解しあう事の無い、同じ血なのに、赤の他人以上に仲が悪い親子だった。 その父親は上機嫌だった。昔から僕の事になると、物淒く怒り出していたのに。 それが、こんなにも上機嫌だった。とても、不思議な気分だった。 出前の壽司が運ばれ、ビールが運ばれ、初めてうち解けられた夜。 僕は、父親と母親に謝った。姿勢を正して、しっかりと頭を下げた。 僕が出て行った5年間の事、5年前の事。そういった事を謝った。 そして、今現在、無職であり、お金も無い事、僕が仕事を探し、アパートを借りられるお金を作るまでの間、この家で暫くの間、住ませて欲しい事を説明し、頭を下げて、お願いした。 上機嫌だった父親は、急に黙り込み、そして、口を開いては「・・・解った」と、一言だけ言った。 母親は、少しだけ、また目尻に涙を見せた。 僕も少しだけ、涙した。 5年という長い間、音信不通だった馬鹿息子をここまで心配してくれて、これから世話になるなんていう馬鹿な話しをしっかりと聞いて、了解までしてくれた両親に対して、尊敬の念を持った。 5年という長い夢の中、きっと、大変だったんだろう。親戚にも言えないこんな事を、僕の両親は二人で抱え込んでいたんだろう。どれだけ心配してくれたのだろうか? きっと、この事で悩み、喧嘩をしたのかもしれない。そう思うと、本當に僕自身、僕の事を情けなく思い、正直にすまない事をしてしまったと思った。 夜。2階の僕の部屋で僕は煙草を吸っていた。窓を開けると、もうすでに春だと思わせるような風が吹き、靜か過ぎる夜の気配に僕は、何故だか無性に悲しくなって、嬉しくなって、複雑な気持ちが交差して、涙した。 煙草の煙が盡きる頃、父親が僕の部屋に來た。 父親は2つの湯飲みと、一升瓶の日本酒を持ってきた。 父親は僕のと、自分の分の湯飲みに日本酒を注ぎ、日本酒を飲み始めた。 僕は父親に煙草を勧め、火を點けてやった。 僕は日本酒を飲み、父親は煙草の煙を吐く。 僕もまた煙草を吸い、父親もまた煙草の煙を吐く。 日本酒の味は、どことなく心を落ち著かせてくれる、不思議な感覚をもたらしてくれた。 僕の部屋は白い煙が立ち上り、窓から入ってくる風がそれを打ち消していった。 ずっと無言だった。でも、それは、決して重苦しい無言では無く、心地よい無言だった。お互いの気持ちが理解出來る、そんな無言の世界だった。 僕は涙を落とした。 父親が、僕の肩に手を置き、「本當に、良く帰ってきた・・・」と、言った。 その聲は、5年前と何ら変わりのない、父親の聲だった。 こうして5年も経って、僕と父親はお互いを理解した。 朝。午前5時30分。僕は少しだけ伸びをして起きて、散歩へと出かける事にした。東京に出た當初もこうして朝のうちに散歩をしていた。日が経つにつれ、散歩をしなくなっていった。働く時間を増やしたりしているうちに、散歩をしている餘裕が無くなっていった。でも、今はこうしてのんびりと過ごす事に決めた以上は、散歩もまた出來るようになるはずだ。 まだ、両親は起きていないようだ。起こしてしまっては悪いので、靜かに出て行く。東京に行く日も、靜かに出て行った。 12月や1月に比べると比較的、暖かい。寒さも厳しい寒さでは無く、優しい暖かさへと変わっていた。春の足跡が良く聞こえる。鬆江にも春は訪れる。そして、僕の胸中にある、戀文・・・・あの人への想い。蘇るは・・・・あの人への想い、僕の馬鹿さ加減。 僕はしっかりと春の息吹を體一杯に吸い込み、歩き出した。帰ってくる場所がある。迎えてくれる、家族がいる。待っている、人がいる。そこは僕にとって、とても重要で、とても大切な世界だった。 東京にいた頃のような鬱屈とした思いは消えていた。 僕は漸く、開放された。僕は漸く、自由に飛翔する。 僕の家のすぐ近くにあの人がいるであろう家がある。何となく戀文の文麵が蘇って、気恥ずかしい思いが勝ってしまい、僕の頬は自然と赤くなる。 もしかすると、あの人はまだ寢ているのかもしれない。 もしかすると、あの人はもう、いないのかもしれない。 なんだかとても、ネガティブな方向に引っ張られる。 なんだかとても、色々な感情が錯綜して、僕の胸を焦がす。 僕の視線が、あの人の家から外れる時、 玄関が開き、あの時とそんなに変わらない、僕の胸をゆっくりと焦がし、 ほろ苦い、それでいて何処か甘さを感じる、そんな想いがゆったりと流れる、あの時の感覚。 錯綜する想い。 僕は夢を取り、 あの人は僕に戀文をくれた。 恥じらい。 きっと、あの後、泣いたのだろう・・・・。 頬を朱に染め、俯いてしまった、あの人。 早咲きの桜の花片が、風に舞って落ちた瞬間。 玄関は開き、あの時の僕の決斷が、色々な想いを苦しめ、 玄関は開き、再び、ゆっくりとした同じ時が流れる奇跡のような出來事。 あの人は、5年も経ったというのに変わらず、 僕は、5年も経ってしまい、すっかり変わり、 あの人は、ほんの少しだけ聲を漏らした。 僕とあの人が再び、鬆江で會った瞬間。 僕の心を満たし始める。 僕の心に柔らかく暖かい水が流れる。 あの時と変わらない朱に染まる頬。少しだけ大人びた雰囲気。5年間の成長の跡。あの人はゆっくりと、僕の所まで來て、ただ一言、「會いたかった」とだけ言い、泣き始めた。 僕とあの人は再開した。 僕にとっては一瞬の出來事のように過ぎていった5年間。 これから、ゆっくりと、ゆっくりと流れ始める、春の福音。 一頻り泣いた後、あの人は微笑んだ。春のように、華のように、暖かい日差しのように・・・。 春の福音は、透き通った透明な音。 あの人の涙と、あの人の微笑み。 僕はゆっくりと、あの人を抱き寄せ、「・・・僕も會いたかった」と、漏らすのが精一杯だった。 あの人の頬は朱に染まり、 僕の心は穏やかだった。 春のように、華のように、暖かい日差しのように・・・・。 ゆっくりと、ゆっくりと、時は流れ始める。 僕たちは再會を、果たした。 |