>>新編中國軍と交戦するが、アメリカ軍に支援された新編中國軍に包囲されたため補給が途絶え、栄養失調とマラリアによって3,000人を越える戦病死者を出した。<<
>>第18師団のビルマ方麵參加兵力は31,444名であったが、20,000名以上が戦死している。慢性的な物資欠乏の影響はどの部隊でも同様であったが、ビルマ方麵に展開していた連合軍が「菊」の名を冠する第18師団との交戦を名譽としていたことも戦死者を増大させた一因とされている。<<
>>フーコン河穀の連合軍は、スティルウェルの指揮する中國軍新編第1軍(通稱「インド遠征軍」)とアメリカ軍第5307混成部隊(通稱「ガラハッド」部隊または「メリルズ?マローダーズ」)だった。1943年12月24日、中國軍第38師はユパンガを守備する日本軍を攻撃し勝利した。中國兵は日本軍の精鋭部隊に対する初めての勝利に狂喜した<<
>>フーコン河穀では第18師団が補給を回復したのもつかの間、カマインで退路を絶たれ玉砕の危機に至った。6月末、第18師団は退路を切り開きフーコン河穀から撤退した。
第18師団の捕捉に失敗したことは米英中の連帯不足が原因であり、スティルウェルにとって不満の殘る結果だった。<<
>>拉孟は、ビルマルートが怒江を橫切る「恵通橋」の近くの陣地である。陣地は標高2,000メートルの山上に位置し、深さ1,000メートルの怒江の峽穀を隔てて中國軍と向かい合う最前線だった。日本軍は歩兵第113連隊を守備隊とし陣地設備を強化していた。6月2日、中國軍が拉孟を包囲したとき、連隊長鬆井秀治大佐は出撃中だった。金光恵次郎少佐以下1,270名の守備隊は、41,000名の中國軍の攻撃をたびたび撃退した。だが9月7日、木下正巳中尉と兵2名[注 3]を報告のため脫出させた後、拉孟守備隊は玉砕した。 <<