12月20日
夜11時過ぎの東京発夜行列車「ムーンナイトながら」に仱盲俊?br />
大垣まで約8時間。青春18切符を使っているので、東京-小田原間の佨嚾?騽e購入し、1回分の切符が節約できた。
電車でなかなか寢付かず、暇つぶしに後ろの風景を撮った。
ずっと大垣まで同じ席だと思っていたので、かなり寛いだ。しかし、名古屋で車両が切り離される為、慌てて前の車両に移動したが、切り離された後ろの車両より伩亭?啶?蘋祀jしていた。
21日朝7時ごろに大垣で下車し、二回の亾Qえを経て約二時間後に京都駅に辿り著いた。すぐ徳島行きの高速バスの仱輟ⅳ?邕^ぎに徳島駅に到著し、駅から歩いて5分のところにある素泊まりの宿にチェックインした。
88ヶ所のうちの1番~23番が徳島県にあり、今回は目標を決めずに體調に合わせて気ままに歩くことにした。私は県毎を製覇する「1國打ち」し、更に逆の順で「逆打ち」しているため、まずは23番「薬王寺」に向かった。
徳島駅から鈍行で1時間半近く南に下り、海辺にある日和佐市に來た。23番の「薬王寺」は海岸からちょっと離れた小さな山の上にあった。
日が暮れて、帰途に著くお遍路さん。
日和佐市の大浜海岸は、ウミガメの産卵地として広く知られている。 毎年5月中旬~8月中旬にかけて産卵のためアカウミガメが訪れるのが有名だが、この季節じゃ何も見えない。でもここまで來た以上海岸を見に行かないのが勿體無い。また、冬の海が好きな私がこの機會を逃す訳はない。
朝大垣についてからほとんど休憩せずに食事を取る暇もなかったから、さすがにお腹が空いてきた。海岸に向かう途中で地元の和菓子屋さんで可愛いウミガメの形した和菓子を二つ買った。お店の人が「うちからのお接待です」と言って、更に小さな和菓子を3つほど袋に入れてくれた。遍路の途中でよくトマト一つ、ジュース一本など地元の人たちからの「お接待」をもらう。斷らずに禦禮を言って受け取るのが遍路の仕來りで、私もそうした。
小さな漁港を通り、20分ほど歩いた。
海岸でリュックを下ろし、岩に座り込み、和菓子をいただきながら徐々に暗くなっていく海を靜かに眺めていた。賑やかな都會からやっと離れて、私はこの海の音しか聞こえない海岸で心の餘裕が得られた。
私の遍路小道具。
周りがどんどん暗くなり、夜がやってきた。1時間あまり海岸で座り込んでいた私が腰をあげ、徳島に戻る為に日和佐駅に向かった。何気なく振り向くと、ライトアップした日和佐城と光る小さなクリスマスツリーが見えた。小さいながらもそれなりの工夫を凝らし、歴史文化を大事にし、時代遅れにもなってない日和佐市だった。
徳島駅に戻ったのは夜8時半過ぎで、宿の近くの蕎麥屋さんで鍋焼きうどん(私は蕎麥を好まない)を食べ、身體を溫めた。
私にとって、都會から離れるのが一番の憩い。旅に出ると、お酒もほとんど飲まず、早寢早起きの健康な生活リズムに戻る。この日も12時前に電気を消して寢た。
12月22日 雨
朝方の6時ごろに外のザーザー降る雨の音で目が覚め、「こんな日に寒い山道を一人で歩けるかしら。。。」と悩み始めた。フワフワの羽毛布団に包まれて、溜まっていた疲れがジワジワと體の隅々から出てきて、私は意識朦朧してきて、そのまままた深い眠りに落ちた。
今度はお晝前に目が覚めた。だるい~!と思いながら、布団を出た。雨が大分弱くなったから、午後は徳島城址に行くことにした。
徳島城は約420年前に蜂須賀家政が四國征伐で勲功があったため、豊臣秀吉から賜った18萬6千石の阿波一國だった。その後、大規模な平山上を構築し、江戸時代を通じて徳島藩蜂須賀家25萬石の居城となった。明治時代に廃城となり、場內の建築も破壊された。城址のままで今まで殘されてきた。
お城境內に城博物館があった。そこで覚えのある名前-「長曾我部元親」を見た。そう言えば、前回高知県を廻る途中で、33番の長曾我部家の菩提寺でもある雪渓寺の近くに四國統一を成した長曾我部元親のお墓があった。
博物館の隣に江戸時代に作られた石組みによる桃山式の庭があった。雨が降っていたせいで観光客は私しかいなかった。靜かだった。雨がときたま一滴、二滴と零れ落ちてきて、池の中でさざ波を立たせた。
この日は思い切りのんびりし、夕食は昨日と同じところで食べて、同じぐらいの時間に寢た。
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