Richard Coudenhove-Kalergi リヒャルト?ニコラウス?栄次郎? クーデンホーフ=カレルギー | |
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1926年 | |
全名 | Richard Nikolaus Eijiro Graf Coudenhove-Kalergi |
身位 | 伯爵 |
出生 | 1894年11月16日 日本、東京府 |
死去 | 1972年7月27日(満77歳沒) オーストリア、フォアアールベルク州ブルーデンツ郡シュルンス |
配偶者 | 1人目: イダ?ローラン |
2人目: アレクサンドラ?フォン?ティーレ伯爵夫人 [舊姓 バリー] (Alexandra Gräfin von Tiele, [geb. Bally] ) | |
3人目: メラニー?ベナツキー=ホフマン(Melanie Benatzky-Hoffmann) | |
父親 | ハインリヒ?クーデンホーフ=カレルギー |
母親 | 青山みつ |
役職 |
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受賞 | |
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1950年 | |
1962年
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1965年 | |
1966年
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1967年 | |
1972年 |
リヒャルト?ニコラウス?栄次郎?クーデンホーフ=カレルギー(ドイツ語: Richard Nicolaus Eijiro Coudenhove-Kalergi、1894年11月16日 - 1972年7月27日)は、クーデンホーフ家とカレルギー家が連攜した伯爵一族クーデンホーフ=カレルギー家の人物で、東京生まれのオーストリアの政治活動家。汎ヨーロッパ連合主宰者。別名、青山 栄次郎(あおやま えいじろう)。
汎ヨーロッパ主義(パン?ヨーロッパ主義)を提唱し、それは後世の歐州連合構想の先駆けとなった。そのため歐州連合の父の一人に數えられる。
父はオーストリア=ハンガリー帝國駐日特命全権大使のハインリヒ?クーデンホーフ=カレルギー伯爵、母はハインリヒの大使公邸の使用人をしていた東京牛込出身の日本人青山みつ(クーデンホーフ=カレルギー?光子)。父ハインリヒが在日中に、みつ(舊名)と出會い日本で結婚(みつは日本國籍を喪失し仏教から夫と同じカトリックに改宗した[1])。クーデンホーフ=カレルギー夫妻の7人の子の次男として1894年に東京府に生まれる。一家は1896年に日本を離れ、父親の故郷オーストリア=ハンガリー帝國へ行き(リヒャルトと兄は父母と別の経路で行った[2])、ロンスペルク城で兄弟姉妹とともに育つ[3]。
1908年、ウィーンのボーディングスクールテレジアヌムに入學し[4]、1913年に卒業[2]。1914年にウィーン大學に入學し哲學?近代史を専攻[5]。1917年にウィーン大學を卒業[2]、同年に同大學で哲學博士號取得[6]。彼は哲學者になりたかった[7]。1914年に始まった第一次世界大戦では兄ハンス(Johannes)と弟ゲオルフ(Gerolf)は徴兵されたが[2]、リヒャルトは若幹の胸部疾患があったので徴兵を免れた[8]。オーストリア=ハンガリー帝國が第一次大戦に敗北して帝國內諸國が獨立すると一家は領地のあるチェコスロバキア共和國の國籍となり、兄で長男のハンスがロンスペルクの領主として領地?領民を治めることになった[2]。一家の領地は多くが政府に沒収された[5]。ウィーン大學在學中[2]、大物俳優イダ?ローラン(1881年-1951年)と知り合い、駆け落ち同然に同棲を始め[9]、1915年4月に19歳の彼は、34歳のイダと結婚[4]、正式な結婚は彼が24歳になってからである[2]。イダの連れ子エリカはクーデンホーフ=カレルギー家の養女になった[4]。
1923年、最初の妻イダの資金で[2]汎ヨーロッパ社(Paneuropa-Verlag)を設立し、1924年に発刊した同社の機関誌『Paneuropa』(汎ヨーロッパ)にてジャーナリスト?編集者として働く。クーデンホーフ=カレルギーは1923年の時點において、第一次大戦後の將來的な戦爭と、ソ連側?米國側の分斷を警告していた[10]。
リヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーが主宰し政治活動の拠點としていた汎ヨーロッパ連合(汎ヨーロッパ運動)はナチス?ドイツに弾圧された。1939年の春にフランス共和國の市民権を取得した[7][11]。以後終生フランス國籍である[6]。1940年にアメリカ合衆國へ亡命し、ニューヨーク大學のセミナー等[12]をしながら汎ヨーロッパ運動を継続。1944年にニューヨーク大學教授に認定される[4]。米國亡命中には、クーデンホーフ家のかつての主君の末裔オットー?フォン?ハプスブルク公と協調して(クーデンホーフ家の源流はハプスブルク君主國の伯爵である[2])リヒャルト?クーデンホーフ=カレルギー自らを首班とするオーストリア亡命政府を畫策し、米國政府?英國政府に働きかけた[6][12][13]。
第二次世界大戦後、1946年にヨーロッパへ帰り、スイス?グシュタートに入った[4]。1962年にオーストリア共和國から名譽大銀星勲章(Großes Silbernes Ehrenzeichen mit dem Stern)を受勲した[14]。1967年には生まれて間もなく離れた日本へも帰郷し、勲一等瑞寶章を受勲した[5]。
2度の大戦を一緒に生き抜いた妻イダは1951年に死去、1952年にアレクサンドラ?フォン?ティーレ伯爵夫人(1896年-1968年)と再婚し、1968年にアレクサンドラが死去後、1969年にメラニー?ベナツキー=ホフマン(1909年-1983年)と再婚した[4]。
1972年にスイス國境付近のオーストリア國內にある村落シュルンスで死去[11][15]。彼の秘書ダッシュ女史によると、彼は自殺したという[16]。彼が偉大であったため、人々を失望させないように彼の自殺は隠蔽されたようである[16]。
リヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーは友愛団體フリーメイソンリーの會員すなわちフリーメイソンである[17][18]。
汎ヨーロッパ連合のウェブサイトによると、1922年、クーデンホーフ=カレルギーはフリーメイソンのロッジに參加し、そのロッジとはウィーンにあるロッジ「人道」(Humanitas)である[11][19](文獻によっては1921年に既に參加している[20])。その後は中央ヨーロッパ、フランス、英國、米國のフリーメイソンリーと接觸を続けた[11]。後年スペイン語で翻訳出版されたクーデンホーフ=カレルギー著『汎ヨーロッパ』の略歴紹介によると、1922年がロッジ「人道」でクーデンホーフ=カレルギーがフリーメイソンリーに入會(スペイン語: iniciado)した年である[21]。
ナチス?ドイツは1938年に発行した『Die Freimaurerei Weltanschauung Organisation und Politik』(ベルリン、F. Eher発行、著者: ディーター?シュヴァルツ、序文: ラインハルト?ハイドリヒ保安警察長官)でクーデンホーフ=カレルギーがフリーメイソンである件について記述し[22]、クーデンホーフ=カレルギーはチェコスロバキア外務大臣エドヴァルド?ベネシュ(プラハで入會[23])と同一のグランド?オリエント?ロッジに所屬する高位階級のフリーメイソンリー會員であるというのがナチス?ドイツの調査である[18]。この書籍は後の版でエルンスト?カルテンブルンナー親衛隊上級地區司令官が序文を寄せ、最終版は1944年の第6版となった[18]。また英訳版があり、『Freemasonry Its World View Organization and Policies』の英題で発行された[18]。
「ヨーロッパ合衆國」および「フリーメイソンのメンバー一覧」も參照
クーデンホーフ=カレルギーが汎ヨーロッパ運動を開始すると、ヨーロッパ各地のフリーメイソンリーが彼を後援に招くなど汎ヨーロッパ運動を支援した[20]。クーデンホーフ=カレルギー以前に歐州統合へ言及したフリーメイソンは、例えばヴィクトル?ユーゴー[24][25][26]である(1849年の平和會議)。イタリア統一の中心人物としてクーデンホーフ=カレルギーが言及したジュゼッペ?マッツィーニ[27]は、イタリアのグランド?オリエント?ロッジ(Grande Oriente d'Italia)で代表者(グランド?マスター)を務めたフリーメイソンである[28]。
音楽?音聲外部リンク | |
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歐州の歌を試聴する | |
European Anthem - 歐州評議會公式YouTube。「歌なし」の正式版。 |
「フリーメイソン#ルートヴィヒ?ヴァン?ベートーヴェン」も參照
1955年、フリーメイソンのクーデンホーフ=カレルギーはヨーロッパのシンボルとなる歐州の歌としてベートーヴェンの「歓喜の歌」を提案した[29]。
「歓喜の歌」の歌詞のもとになったフリーメイソンのシラー[30]の詩は、シラーの親友でフリーメイソン[31]クリスティアン?ゴットフリート?ケルナーの求めに応じてドレスデンにあるフリーメイソンのロッジ「三振りの剣と緑のラウテ上のアストレア」(Zu den drei Schwertern und Asträa zur grünenden Raute)の音楽付きの儀式のために1785年に書かれたものであり[32][30][33]、それは(友情の絆により結束した平等な人々の社會という)メイソンの理想を描寫するものである[32]。
歐州評議會の閣僚委員會は1972年1月に歐州の歌への「歓喜の歌」の採択決定を公式発表した。歐州は極めて多種の言語のため歌詞は非公式であるが、セルビアのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると作曲したベートーヴェンはフリーメイソンである[24](カナダのグランドロッジによると少なくとも有力な根拠がある[34])。
青年時代のクーデンホーフ=カレルギーは彼の名を知らしめた「汎ヨーロッパ」構想以外に著書『Adel(貴族)』(1922年)[35]等の出版がある。彼自身貴族である彼がそれらの著書において考える「貴族」とは、単に伝統的貴族ではなく、人類が更なる高みに上るために必要な指導者?先駆者となる者である[36]。貴族には美があり、その基本となるのは肉體的、精神的、知的な美である[36]。彼によるとヨーロッパ貴族は英國のフェアプレイ精神?騎士道精神のジェントルマン型、フランスの芸術家気質のボヘミアン型、ドイツの貴族、官僚、將校、大地主政治家など武勇気質のジークフリート型があり、優れているのは英國のジェントルマン型である[36]。
また「技術」とは人類が期待する転換期をもたらすものであり、前人未踏の新しいエネルギー源を発見する発明家が現れてその転換期が到來し、その発見は人類を飢餓、凍死、強製労働から解放する[36]。しかしながら技術は戦爭につながるのでヨーロッパは「平和主義」であるべきで、そのための汎ヨーロッパ運動であり、その運動は平和主義者の貴族が行うのであるという[36]。
名譽、金銭、生命を犠牲にして平和を勝ち取るという彼の戦闘的な平和主義や、「新しい貴族」(精神貴族)によるそれらの実踐的理想主義は、ヨーロッパで大部分の平和主義者からの支持を得るまでには至らなかったが、若い平和主義者からの支持を得ることができた[20]。
「汎ヨーロッパ主義」、「歐州連合の歴史」、および「歐州連合の拡大」も參照
クーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ運動は1922年10月に始まった[38]。彼は汎ヨーロッパの構想を新聞紙上で発表した。1922年11月15日、Vossischen新聞の「Paneuropa-ein Vorschlag」という記事の中で最初に発表され、11月17日にNeuen Freien Presseでも発表された[39]。1923年に単行本『汎ヨーロッパ』を著しセンセーションを起こし、汎ヨーロッパ運動は組織化されていった[40]。本は「全歐州の青年に告ぐ」という文言で始まり、「汎ヨーロッパ連合に加入します」というハガキが付き、初めの1か月に100人餘りが申し込んだ[41]。オーストリア共和國政府の支援もあり[40]、1926年に24か國の代表による第1回汎ヨーロッパ會議をウィーンで開催し、2,000人以上の政治家?論客が參加した[6][15]。汎ヨーロッパ運動の本部は彼の一族の舊主君ハプスブルク家の舊王宮「ホーフブルク宮殿」(ウィーン)に置かれた[42]。
クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」の要旨は、第一次世界大戦後のヨーロッパは戦勝國?敗戦國ともに大損害を被っているにも拘らず分裂しているが、ヨーロッパはロシアの脅威に対抗しなければならず、米國と経済競爭をしなければならない、というものである[36](この対外的な対決姿勢の部分は米國で出版された英語版の『汎ヨーロッパ』からは除外された[27])。
1919年のある日、クーデンホーフ=カレルギーは地球儀を眺めて世界のブロック化に思い至った[43]。
歐州の統合を目指したクーデンホーフ=カレルギーが、歐州統合の先に目指すところは世界が1つになること、世界連邦である[5]。世界連邦に至る過程において、世界の諸地域は5つの地域國家群(ブロック)に分けられ、それは「ヨーロッパ」(植民地含む[2])、「南北アメリカ」、「東アジア」、「イギリス連邦」、「ソビエト連邦」であり、最終的に世界連邦を形成するのである[5]。
當時クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」を支持した政治指導者は、エドゥアール?エリオ(仏首相)、アリスティード?ブリアン(1926年ノーベル平和賞受賞者)、グスタフ?シュトレーゼマン(同1926年ノーベル平和賞受賞者、フリーメイソン[44])、ウィンストン?チャーチル(英自治領植民地大臣、英首相、フリーメイソン[23])、レオ?アメリー[41](英自治領植民地大臣、フリーメイソン[45])、イグナーツ?ザイペル(オーストリア共和國連邦首相)、トマーシュ?マサリク(チェコスロバキア共和國大統領)などの人物である[5][15]。文化人では、ハインリヒ?マン(作家)とその弟トーマス?マン(ノーベル文學賞作家)、ゲアハルト?ハウプトマン(ノーベル文學賞作家)、シュテファン?ツヴァイク(ユダヤ係の作家)、フランツ?ヴェルフェル(ユダヤ係の作家)、リルケ(ユダヤ係の詩人)、ヴァレリー(詩人)、リヒャルト?シュトラウス(作曲家)らが賛同した[15][46]。アインシュタイン(ノーベル物理學賞物理學者、ユダヤ係)、フロイト(精神分析學者、ユダヤ係)らも賛同した[46][47]。
ブリアンは1927年に汎ヨーロッパ連合初代名譽會長になった[46]。チャーチルは1946年の「チューリッヒ演説」でヨーロッパ合衆國を提唱し、演説では英國とヨーロッパを分けた[48]。演説の文麵はクーデンホーフ=カレルギーの協力があった[4]。現実には英國(イギリス)はクーデンホーフ=カレルギーが死去した翌年の1973年に歐州諸共同體(石炭鉄鋼、経済、原子力)に加盟し、後の歐州連合の加盟國になった。ユダヤ係の銀行家マックス?ヴァールブルク(M?M?ヴァールブルク&CO社)は1924年初期、金マルクで調達した資金を汎ヨーロッパ運動に提供し、その額は60,000金マルクであった[49]。
マサリクはクーデンホーフ=カレルギーを支持こそしたものの[15]、クーデンホーフ=カレルギーが「ヨーロッパ合衆國のジョージ?ワシントン」としてマサリクを擔ぎ上げるという誘いには「時機尚早」として乗らなかった[27]。もし自分が35歳であったなら(若かったなら)、とマサリクは、そこまで乗り気ではない一因を後年に語った[27]。またマサリクは、息子のヤン?マサリクはフリーメイソンリーに入會したが[50]、自身はフリーメイソンリーをカトリックにとってやましい団體と思っていた[51]。初代米大統領ジョージ?ワシントンはフリーメイソンであり[50]、米國に彼のフリーメイソン記念館「George Washington Masonic National Memorial」が1922年に著工、1932年に完成し、ジョージ?ワシントンがフリーメイソンであることは特に有名である。
クーデンホーフ=カレルギーは1950年代以降、汎ヨーロッパ會議も継続していたが、懐古的保守と見なされるようになり保守層からの一定の支持はあったものの、かつてのような歐州統合の主役ではなかった[52]。歐州連合(EU)に至る過程において、シューマン宣言(1950年)のロベール?シューマン、シューマン宣言を構想したジャン?モネらがクーデンホーフ=カレルギーと同時代に活躍した[5][53]。歐州における定説では、シューマンプランが歐州を生み、シューマンプラン構想?歐州石炭鉄鋼共同體設立のジャン?モネが「EUの父」であるという[5]。築波大學教授?東京大學特認教授のハラルド?クラインシュミット(Harald KLEINSCHMITDT)によると、クーデンホーフ=カレルギーの思想上の価値観はほとんどの人々にとっては魅力がなかったうえ、矛盾に満ち、また貴族のエリート意識があり、不適切な理想主義的価値観の尊重がなされ、さらに宗教上の派閥主義が原因となり、汎ヨーロッパ主義は時流に取り殘されたのである[54]。
クーデンホーフ=カレルギーが世界連邦として世界を5ブロックに分けたうちの1ブロック「ヨーロッパ」とはヨーロッパ諸國の植民地を含めた範囲であり、英國は広大な植民地を領有しているのでそれら植民地が含まれる「イギリス連邦」を1ブロック化した[5]。
著書『汎ヨーロッパ』(1923年)の歐州統合にはアフリカと東南アジアが入っている[55]。著書でヨーロッパとアフリカは政治的?経済的に同等ではなかったため、1927年に『汎ヨーロッパ』のフランス語版が出版されたフランスでは、アフリカをヨーロッパの経済的後背地と考える「ユーラフリック」(Eurafrique)論者たちが『汎ヨーロッパ』を好意的に受けとめた[55]。1927年フランス語版は、1923年ドイツ語原書の出版以降の動向に関して新たに付け加えられた。
1931年に発表したフランス語の書籍『La lutte pour l’Europe』(歐州のための戦い)でクーデンホーフ=カレルギーは西アフリカを歐州の庭にして歐州で共同開発をするという提案をした[55]。
クーデンホーフ=カレルギーはイタリアのムッソリーニ政権がエチオピアの再植民地化を目的に行ったエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦爭: 1935年-1936年)をヨーロッパ全體にとっての利であるということで支持している[56]。歐州列強によるエチオピアへの態度はアフリカを「汎アフリカ主義」へ向かわせる大きな影響を及ぼすことになった[57]。第二次大戦後、歐州統合の構想に刺激され、アフリカの知識人たちは「汎アフリカ」を提唱した[55]。1950年代にアフリカで脫植民地化が始まり、アメリカ合衆國においてもアフリカ係アメリカ人(黒人)の公民権適用と人種差別撤廃の運動が始まった(アフリカ係アメリカ人公民権運動)。
クーデンホーフ=カレルギーは東南アジアに関しては、ヨーロッパ?オランダの植民地であったインドネシア(オランダ領東インド)を「汎アジア」ブロックが実現したならばそちらに差し上げてもよいということを言っていた[36]。
クーデンホーフ=カレルギーはカトリックのキリスト教徒として育てられた[20]。
ユダヤ係の俳優イダ?ローランと結婚したクーデンホーフ=カレルギーは、第1回汎ヨーロッパ會議が開催された1926年に、彼の汎ヨーロッパ運動によりヨーロッパのユダヤ教徒に特別な支援をする意思を表明し、またヨーロッパ合衆國はユダヤ教徒に有益であり、民族的憎悪と経済的敵愾心をなくすであろうと言った[58]。
クーデンホーフ=カレルギーはナチスの民族的ナショナリズム?ゲルマン民族至上主義を批判した[5]。民族平等の考えは、父ハインリヒの影響も見受けられ、ハインリヒは民族平等論者でユダヤ教徒への差別などを批判し、『ユダヤ人排斥主義の本質』という本も書いている[5]。リヒャルトは1937年、『Judenhaß!』(ユダヤ教徒への憎悪!)を出版した。
クーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」の過程には「歐州関稅同盟」の構想がある[5]。オーストリアでは1929年からの世界恐慌下にある1931年に、前オーストリア共和國連邦首相の外務大臣ヨハン?ショーバーがクーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ主義」をドイツとの経済協力のための大義として主張したが、第一次世界大戦の戦勝國フランスによる経済製裁でオーストリア最大の銀行クレジット?アンシュタット(Creditanstalt)は1931年5月に破綻、ショーバーは失腳し、その後ナチスが台頭することになった(ドイツ?オーストリア関稅同盟事件)。
クーデンホーフ=カレルギーは1931年に『Brüning - Hitler: Revision der Bündnispolitik』(ブリューニング - ヒトラー: 同盟政策の変更)という31ページの本を自身の汎ヨーロッパ社から出版している。ドイツの首相ハインリヒ?ブリューニング(Brüning)はドイツ?オーストリア関稅同盟事件のドイツ側の當事者であり事件後に首相を辭任し、躍進したヒトラーのナチスに暗殺される危険(長いナイフの夜#ドイツ政界の噂)があったブリューニングはアメリカ合衆國に亡命した。
1932年にスイスのバーゼルで開催された第3回汎ヨーロッパ會議ではナチス?ドイツへの反対を決議した[5]。
ナチス?ドイツの指導者アドルフ?ヒトラーは、クーデンホーフ=カレルギーと同時代の政治家であり、クーデンホーフ=カレルギーと同じく父親はオーストリア=ハンガリー帝國の役人である。ヒトラーはクーデンホーフ=カレルギーより5年早く、オーストリア=ハンガリー帝國の稅関職員アロイス?ヒトラーとヒトラー家の家政婦クララとの間にオーストリアのブラウナウで生まれた。
ヒトラーは自著『我が闘爭』(1925年-1926年)に続いて1928年に完成させた生前未発行の口述筆記の自著『Zweites Buch』(第二の書; 続?我が闘爭)の中でクーデンホーフ=カレルギーを「Allerweltsbastarden Coudenhove」(皆全員にとっての忌まわしい愚かなインチキ人間、クーデンホーフ)と記述している[59][60]。ヒトラーは教育水準の高い知識人が嫌いで、貴族のような上流階級も嫌いであった(アドルフ?ヒトラー#対人関係)。
1932年の第3回汎ヨーロッパ會議はヒトラーを指弾した[4]。1933年、ヒトラーがドイツ首相に就任し(1月)、汎ヨーロッパの書籍はドイツで禁止され、焚書(焼卻)となり[4][46]、汎ヨーロッパ連合のドイツ支部は解體された[46]。1935年第4回汎ヨーロッパ會議(ウィーン)は國家社會主義が議題になった[4]。1937年にクーデンホーフ=カレルギーは20世紀の2つの全體主義に関する書籍『Totaler Staat Totaler Mensch』(トータラー?スタート トータラー?メンス; 全體國家 全體人間)を汎ヨーロッパ社から発行した[4]。1938年にナチス?ドイツはクーデンホーフ=カレルギーがフリーメイソンリーの會員であることを記述した書籍『Die Freimaurerei Weltanschauung Organisation und Politik』(フリーメイソンリー 世界観 組織と政策)を発行した[22]。
ナチス?ドイツの「ナチズム」は反ユダヤ主義が組み込まれ、ヒトラー自身も反ユダヤ主義である。ナチスはフリーメイソンリーをユダヤ教に関連する団體と位置付け、クーデンホーフ=カレルギーによる汎ヨーロッパの組織を國際的なフリーメイソンリーの擔い手と見なした[18]。
「ナチズム」のヒトラーにとって「汎ヨーロッパ主義」は邪魔であり、1938年のドイツによるオーストリア併合(Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich)の前夜[4]、クーデンホーフ=カレルギーは妻イダを連れてチェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴ、イタリアを経てスイスへ逃避行を餘儀なくされた[61]。ホーフブルク宮殿の汎ヨーロッパ運動本部はナチスに占拠され、約4萬點に及ぶ書類が処分された[27]。1939年にドイツ?スロバキア?ソ連によるポーランド侵攻が開始し、第二次世界大戦に発展した。フランスを汎ヨーロッパ運動の本拠にするも1940年にフランスがドイツの手に落ちるとスイスを経て、ポルトガル?リスボンに著き、英國亡命は査証手続き難航により中止し[12]、最終的にアメリカ合衆國へ(ここでも査証に苦戦を強いられたが[62])亡命、1940年8月中旬にリスボンからニューヨークへ渡航した[11]。妻イダと娘のエリカは1940年6月にスイスを経てポルトガル?リスボンからニューヨークへ渡航した[4]。ドイツ軍は1940年7月、英國上陸作戦(アシカ作戦)の口火を切り、バトル?オブ?ブリテンを開始した。亡命の翌年、日本が米國に真珠灣攻撃を行い(1941年12月8日)、ヒトラーは米國に宣戦布告した(12月10日)。
1943年の第5回汎ヨーロッパ會議は亡命中の米國で行われ、チャーチルが參加した[12]。亡命中はヒトラーが嫌っていた學者となった(ニューヨーク大學教授)[4]。
歐州戦線も大詰めの1945年4月にヒトラーは絶命(アドルフ?ヒトラーの死)、ナチス?ドイツは敗北、ヒトラーとナチス?ドイツによるヨーロッパの席巻は終焉した(歐州戦線における終戦)。クーデンホーフ=カレルギーは戦後の1947年にヨーロッパ議員同盟(EPU: European Parliamentary Union)を創設するなど、ヨーロッパ共同體の進展に盡力した。
ヒトラーの未発行本『第二の書』(続?我が闘爭)は、1961年に発行された。クーデンホーフ=カレルギーの汎ヨーロッパ社1937年『Totaler Staat Totaler Mensch』(トータラー?スタート トータラー?メンス)は1939年に逆の題名『Totaler Mensch Totaler Staat』(トータラー?メンス トータラー?スタート)でHerold社から再発行され、1965年にHerold社から『Totaler Mensch Totaler Staat』が再?再発行された。
「アドルフ?ヒトラー#芸術」および「アドルフ?ヒトラー#青年期の挫折」も參照
リヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーとアドルフ?ヒトラーは華やかな世紀末ウィーンの文化を體験した。クーデンホーフ=カレルギーはその時代にあって「ヨーロッパの三大美人」[56]と評され、そしてまたユダヤ係であった[56]大物俳優イダ?ローランと結婚し、1920年代になると彼はヨーロッパ文壇の寵児であった[63]。1920年代のヨーロッパ文壇においてはパリにヘミングウェイ(1926年『日はまた昇る』、1929年『武器よさらば』)ら「失われた世代」もいた。
クーデンホーフ=カレルギーの一族と芸術のかつての縁では、ポーランド貴族の曾祖母でパリやワルシャワ社交界の美貌の伯爵夫人マリア?カレルギス(カレルギー家)が芸術のパトロンヌであった。マリア?カレルギスはフレデリック?ショパン、フランツ?リスト、リヒャルト?ワーグナーらと親交を結んだ[64]。
ヒトラーはオーストリア=ハンガリー帝國における美術教育の最高機関ウィーン美術アカデミー(ウィーン造形美術大學)を2度の受験に失敗して結局入學できず、芸術家として挫折した。リヒャルト?ワーグナーのような反ユダヤ傾向の芸術家を好むヒトラー総統はユダヤ係の芸術家をウィーン美術アカデミーから追放した(「退廃芸術」追放)。クーデンホーフ=カレルギーの支持者トーマス?マンはナチスによりプロイセン芸術院から追放された。
リヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーの甥でウィーン幻想派の畫家ミヒャエル?クーデンホーフ=カレルギーはウィーン美術アカデミーに入學し、1964年に首席で卒業した[65]。彼の絵筆には若い頃に伯父リヒャルトと語り合った世界観がある[65]。
「#日本との関係: 汎ヨーロッパへの反応」および「#日本との関係: 日本への帰郷」も參照
日本の外交官永富(鹿島)守之助(1927年に鹿島建設の鹿島一族へ婿入り)は外交官の卵であった1922年にベルリンに赴任してクーデンホーフ=カレルギーの「汎ヨーロッパ」の論説に感銘を受けた[36]。永富は在ドイツ大使本多熊太郎の紹介でクーデンホーフ=カレルギーと知り合うことが出來た[36]。クーデンホーフ=カレルギーは、世界平和の実現のため、無力な國際連盟の基礎として世界の5大地域が必要と永富に言った[66]。その內ソ連、汎アメリカ、イギリス帝國は既に成立し、ヨーロッパとアジアはまだであるということであった[66]。クーデンホーフ=カレルギーは永富に「汎アジア」を進言し、汎アジアが成立したら友情のしるしとして汎ヨーロッパ側に必ず要するわけではないオランダ領東インド(インドネシア)を(汎アジア側に)差し上げると言った[36]。永富はクーデンホーフ=カレルギーに『汎ヨーロッパ』の翻訳を依頼され、1927年に國際連盟協會から日本語版を出版した[36]。
鹿島(永富)は1929年末に外務省を退官し[36]、汎アジアを提唱して郷裏の兵庫から衆議院選挙に出馬したが落選した[66]。それを鹿島から聞いたクーデンホーフ=カレルギーは、地域の統合?協力は必ず実現するからと鹿島を勵ました[66]。
しかしながら鹿島は太平洋戦爭が差し迫る1940年頃、アジアに対する考えを「汎アジア」から「大東亜共栄圏」へと変化させ(しかしまた鹿島の後年の回想録では1942年から1943年頃、鹿島は日本が敗戦してアジア諸國の領土を失うと予期していたという)、またヒトラーを支持した[36]。鹿島は第二次大戦後、5年8か月の公職追放となった[36]。
鹿島は1957年、クーデンホーフ=カレルギーの思想に則し、汎アジア構想の具體化のため、國際的平和と安全の研究機関「鹿島研究所」(1966年から財団法人「鹿島平和研究所」)を設立した[67]。1967年、財団から第1回鹿島平和賞がクーデンホーフ=カレルギーに贈られることになった[66]。その時クーデンホーフ=カレルギーは、日本が世界平和を擔う運命にあり、それは世界唯一の平和主義的な「日本國憲法」がそのようにしていると謝辭で述べた[66]。
鹿島が翻訳?出版したもの等を整理して、鹿島研究所出版會(1963年設立、のち鹿島出版會)から『クーデンホーフ?カレルギー全集』全9巻が1970年から1971年にかけて刊行された。
一生涯、クーデンホーフ=カレルギーを尊敬し、親交を続けた鹿島は、1973年に生家の庭園に「わが最大の希願は、いつの日にかパンアジアの実現を見ることである 鹿島守之助」と刻まれた碑を建立し、1975年に生涯を終えるまで汎アジアを希求し続けた[66]。
クーデンホーフ=カレルギーはヒトラーと対立する他方で、ファシズム思想の本家であるイタリア王國の國家ファシスト黨ベニート?ムッソリーニ統領(任期1925年-1943年)に対しては接近し、これはムッソリーニがナチス?ドイツによるオーストリア併合に反対していたためであり、クーデンホーフ=カレルギーはオーストリア併合を阻止しようとしたが1937年にイタリアが日本とドイツの防共協定に參加したことにより失敗した(日獨伊防共協定)[56][63]。クーデンホーフ=カレルギーとムッソリーニとの往復書簡で1923年と1940年に交わされたものは殘存している[68]。
クーデンホーフ=カレルギーとムッソリーニはともに1番目の妻の名が「Ida」である。ムッソリーニは1914年にIda Dalser(イダ?ダルセル、1880年-1937年)と結婚した。
クーデンホーフ=カレルギーの支持者チャーチルもまたムッソリーニに対する好意的態度を見せたが、EUの父の一人に數えられる反ファシズムのアルチーデ?デ?ガスペリはイタリア國內でムッソリーニと対決し、1927年に逮捕され、釈放後にバチカンを頼り、イタリアのファシズム體製崩壊後はイタリアで外務大臣、首相、大統領を歴任した。
1932年第3回汎ヨーロッパ會議(スイス?バーゼル)ではヒトラーに対してと同時にソビエト連邦の指導者ヨシフ?スターリン(共産黨書記長)に対しても反対を表明した[4]。クーデンホーフ=カレルギーはスターリンの批判をしていたのでソ連に嫌われていた[5]。ソ連との関係はクーデンホーフ=カレルギーがノーベル平和賞を逃した理由の一つであるという憶測がある[5]。
ヒトラーが死去してからの第二次大戦後、スターリンは汎ヨーロッパ運動に反対を表明した[41]。かねてから反?共産主義者として知られていたクーデンホーフ=カレルギーは[69]、1950年代以降の壯年から老年にかけて反?共産主義の姿勢を強めた[6]。クーデンホーフ=カレルギーにとってスターリンが生きていることは死んだヒトラー以上に「自由」に対する危険であった[70]。米國亡命中からクーデンホーフ=カレルギーを支持していた[12]米大統領ハリー?S?トルーマン(フリーメイソン[50])は、日本への原子爆弾投下?日本の降伏により第二次大戦が終結すると間もなく「トルーマン?ドクトリン」(1947年)を宣言し、ソ連側(東側諸國)と米國側(西側諸國)の東西冷戦を発展させた。
1953年にスターリンは死去した。ソ連內部においても1956年にフルシチョフによる「スターリン批判」が行われた。クーデンホーフ=カレルギーの『Totaler Staat Totaler Mensch』(1937年)の英語版を1950年代に読み共感を覚え日本語版を発行した日本の政治家鳩山一郎(フリーメイソン[71])は第3次鳩山一郎內閣で1956年にフルシチョフ、ブルガーニンらとの交渉の末、日ソ共同宣言にこぎ著けた。
東西対立関係はベトナム戦爭(1960年-1975年)、キューバ危機(1962年)など依然として続き、米國ジョン?F?ケネディ政権下で押し進められたベトナム戦爭ではクーデンホーフ=カレルギーが『汎ヨーロッパ』(1923年)で懸念を表明していた化學兵器[36]が使用された(航空機による「枯葉剤」散布)。クーデンホーフ=カレルギーは冷戦を憂慮し、晩年に創価學會會長池田大作との対話を試み、世界平和について語り合った。
クーデンホーフ=カレルギーの死去後、1980年代後半のソ連指導者ゴルバチョフによるペレストロイカ、チェルノブイリ原発事故(1986年)を受けてのグラスノスチ、分斷ドイツにおいて西ベルリンを囲み東西ベルリンを分斷したブロック壁の崩壊(ベルリンの壁崩壊: 1989年)などを経て冷戦は終結した。
クーデンホーフ=カレルギーはヨーロッパとロシアの団結はいつの日か実現可能であろうとも考えていた[72]。ただしそれはヨーロッパとアジアがウラル山脈?アルタイ山脈まで拡大したりヨーロッパが中國?日本?太平洋まで拡大したりしないならば、という地政學的な條件付きであった[72]。
クーデンホーフ=カレルギーが汎ヨーロッパ論を展開する中でヨーロッパや祖國オーストリアの復興のために反対していたヴェルサイユ體製(1919年)[5]においては、ロシア(ソ連)は、ヴェルサイユ條約ほか諸講和條約とともに発足した國際連盟へ1934年に加盟した(1939年に連盟から除名)。1945年発足の國際連合(UN)においては、ソ連は最初からの原加盟國であり常任理事國である。北大西洋條約機構(NATO)においては、2002年に「NATO?ロシア理事會」(NATO20)が設立されたが、21世紀初頭のNATO諸國とロシア連邦の間には未だ溝がある[73]。
1930年代のクーデンホーフ=カレルギーはノーベル平和賞に毎年のように推薦されていたが、國際連盟との関係が重要であったノルウェー政府としては「汎ヨーロッパ」に魅力がなく、ノーベル委員會もクーデンホーフ=カレルギーをそれほど高く評価していなかったようである[74]。
下記はリヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーがノーベル平和賞の候補になった年と彼を推薦した人物の一覧である。これは、ノーベル賞公式サイトが発表している秘匿期間が既に終わった1901年から1956年までの分である[75]。
最晩年の1972年に汎ヨーロッパ運動50周年で歐州統合の功労者ジャン?モネとの共同受賞というシナリオもあったようであるが[52]、クーデンホーフ=カレルギーは1972年7月に世を去り、また1972年のノーベル平和賞は「受賞者なし」であった。クーデンホーフ=カレルギーは第二次大戦の頃は華々しい活躍をしたが、晩年は歐州統合の傍流であった[52]。クーデンホーフ=カレルギーはノーベル平和賞を受賞しなかったが、彼の沒後40年、彼の汎ヨーロッパ運動から90年が経過した2012年に歐州連合(EU)はノーベル平和賞を受賞した。
クーデンホーフ=カレルギーの政敵ヒトラーは1939年に一人の推薦人により一度だけノーベル平和賞への推薦が提出されたが、これは反ファシストのE.G.C.ブラント(ヒトラーの主治醫K.ブラントとは別人物)が皮肉で提出したものであり、すぐに提出は撤回した[76][77]。
「#フリーメイソンリー」も參照
汎ヨーロッパ運動主催者であり、また友愛団體フリーメイソンリーの會員であったリヒャルト?クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、「Brüderlichkeit」(ドイツ語。ブリューダーリッヒカイト)すなわち「友愛」を思想として提唱した。
伯爵の著作に『自由と人生』(ドイツ語の原題は『Totaler Staat Totaler Mensch(トータラー?スタート トータラー?メンス)』。1937年。題意は「全體國家 全體人間」。)がある。文字通り全體主義あるいはファシズムを批判しながら、友愛にもとづく世界を構想した。この書籍は、クーデンホーフ=カレルギーが汎ヨーロッパ運動によりナチス?ドイツと対立し、雙方が政治的に応酬する中で出版された。ドイツによるオーストリア併合はその翌年の1938年のことであり、クーデンホーフ=カレルギーはナチスから狙われ國から國へ逃亡した[61]。日本では元首相鳩山一郎に強い影響を與えた書籍であり、歳月経過後に鳩山が日本語版を書いた(翻訳用テキストは英語版)。
本著作は英訳された『The Totalitarian State against Man(ザ?トータリタリアン?ステート?アゲインスト?マン)』(1938年。題意は「人間に敵対する全體主義國家」。)の他、フランス語訳(1938年)、鳩山一郎の日本語訳『自由と人生』(洋々社1952年、乾元社1953年、洋々社新版1967年)等がある。
1935年、クーデンホーフ=カレルギーは、ファシズムやボルシェビズムが終わるという見通しを立てた[78]。加えて技術進歩により、階級差や貧富の差が無くなり、社會が変容すると宣言した[78]。その社會では個人が確立され、母性による友愛が、社會や國家を築くという[78]。それには、クーデンホーフ=カレルギーが自己完成を人間の最高の義務と考えているという背景がある[78]。クーデンホーフ=カレルギーは、自身の描く社會や國家になるには、教育改革により、全人類が兄弟姉妹になり、全人類が同一の「神」の子(「神の子」も參照)にならなければと考えた[78]。そのために必要なのは、友愛という名の、心の革命であるという[78]。
クーデンホーフ=カレルギーの友愛は、フランス革命の友愛に立腳している[78]。とはいえクーデンホーフ=カレルギーの友愛主義は、自由と平等の両立であり、フランス革命に対して高く評価していない[78]。クーデンホーフ=カレルギーによると、「自由、平等、友愛」のためのフランス革命には、自由の革命はあれど平等と友愛の革命はなく、自由と平等は依然対立しているが、誰もが望むような経済的平等は自由と対立しているようでは無価値である[78]。そこで、友愛主義のもと、友愛革命という心の革命が必要となる[78]。さらにクーデンホーフ=カレルギーは、友愛革命が、各國の國民間および階級間の橋渡しとして、その全ての自由な人間が同胞になる福音であると強調する[78]。心の革命とは暴力や強製ではなく、相互の尊厳を尊重することであり、その権利は人間生來のものであり、その権利はあらゆる製度に優る[78]。
友愛思想の提唱者クーデンホーフ=カレルギーは、友愛主義のもと、友愛革命を以って、友愛社會を築くことを目標としていた[78]。クーデンホーフ=カレルギーが描いた友愛社會は、理想の社會である[78]。その社會はLadyとGentleman(レディとジェントルマン、または淑女と紳士)で構成される[78]。クーデンホーフ=カレルギーにとってのジェントルマン像は、英國(イギリス)のジェントルマンである[78]。ジェントルマンになるための特別な才能は必要ないとし、ありふれた人間であることが人間的であり、ジェントルマンの理想である[78]。そのジェントルマンは、女性より體の強いものとして、レディを尊敬して守る道徳上の義務がある[78]。
クーデンホーフ=カレルギーは同時代の政治家アドルフ?ヒトラーと対立し、批判していた。また同時代の政治家ヨシフ?スターリンの批判もしていた[5]。
クーデンホーフ=カレルギーは、ある同時代の政治家を、卑怯で尊大、うぬぼれた輩(やから)と批判している[78]。クーデンホーフ=カレルギーによると、クーデンホーフ=カレルギーの時代の政治は、ある政治家が部分的に手中に収め、その政治家は「大多數の世論の支持を得たものとうぬぼれているような」人物である[78]。そこで政治の世界でもレディとジェントルマンの理想が重要になってくる[78]。この理想が到來すると民主政治が確固たるものとなる[78]。出來ない約束をする政治家がいなくなる[78]。理想社會のジェントルマンに財産や子どもを任せることが出來る[78]。
「#鹿島守之助との親交」も參照
「クーデンホーフ=カレルギー光子」も參照
母?光子(みつ)はリヒャルトが幼い頃、『桃太郎』などの日本の童話を読み聞かせた[5]。
1906年に夫のハインリヒが急逝すると光子がクーデンホーフ=カレルギー家の當主となった。
リヒャルトはウィーン大學に在學中[2]、光子に同行した社交場で俳優のイダ?ローランと知り合ったのであるが[9]、リヒャルトと光子との関係はイダとの結婚で悪化した。光子は日本の古い考えがあり芸人を蔑視していた[2]。リヒャルトはウィーン大學を卒業する前年の1916年に光子から勘當された[2]。光子はリヒャルトが「汎ヨーロッパ」で腳光を浴びると、汎ヨーロッパ運動には興味がなかったが、この頃にリヒャルトの勘當を解いた[2]。
光子もまた、かつて自身がハインリヒと結婚するという時に、外國人と結婚することを望まなかった父母から一時勘當され、後に結婚は承諾された[2]。ハインリヒ側でも、貴族と平民の身分違いもさることながらハインリヒは外交官であるので任地の女性との結婚が許されず、その件でハインリヒはバンコクへ転任、この結婚はヨーロッパの外交官としては前代未聞であった[2]。それだけでなくハインリヒの父フランツが反対していた[2]。
光子はハインリヒと結婚して日本を離れる際に昭憲皇太後(明治天皇の皇後)に拝謁し、1931年に高鬆宮夫妻と謁見した[2]。光子は日本大使館から守られていたのでリヒャルトの母であってもナチス?ドイツからの迫害は受けなかった[2]。
「鳩山一郎#友愛」も參照
日本の政治家鳩山一郎とクーデンホーフ=カレルギーの関係において、クーデンホーフ=カレルギーの著書『Totaler Staat Totaler Mensch』(トータラー?スタート トータラー?メンス; 全體國家 全體人間)の日本語翻訳?単行本出版がある。翻訳用テキストは英訳書である『The Totalitarian State against Man』(英訳者: アンドリュー?マクファディエン)。底本として使用した英書から一郎はクーデンホーフ=カレルギーの友愛思想に影響を受けた。
ナチス?ドイツから逃れ汎ヨーロッパ運動を継続するため、クーデンホーフ=カレルギーは1940年にポルトガルのリスボンでアメリカ合衆國への亡命を図っていた。當時の日本がドイツと協力関係にあったにもかかわらず、ポルトガル公使館米澤菊二館長は亡命の査証手続きに苦労していたクーデンホーフ=カレルギーを手助けした[62][85]。クーデンホーフ=カレルギーはコロンビア大學総長ニコラス?バトラーに電報で打診し、ハル國務長官(フリーメイソン[86])の署名入りのビザ発行命令が出されてようやく米國行き航空券の入手に成功した[27]。「ハル?ノート」は、翌年1941年に米國から日本に提案された。
クーデンホーフ=カレルギーはアメリカ合衆國への亡命を手助けした米澤館長に英書『The Totalitarian State against Man』をプレゼントし、米澤はジャーナリストの鬆本重治にその本を貸し、鬆本は早稲田大學教授の市村今朝蔵に貸した[85]。市村は鳩山一郎にその本を日本語に翻訳して出版してもらおうと思い一郎のもとを訪れた[85]。既に第二次世界大戦は終焉し一郎は公職追放中にあった。
一郎は市村から手渡された英訳書を『自由と人生』と題して翻訳し、1952年に出版された[87]。本書で一郎は、英語の「Fraternity」(フラタニティ)を「友愛」と翻訳した。一郎は友愛思想を日本で提唱、出版の翌年には友愛青年同誌會を結成した。クーデンホーフ=カレルギーは友愛青年同誌會名譽會長を務めた[71][87]。1954年に友愛青年同誌會の「友愛の旗」と「友愛の歌」(來拪中翁作詞、渡邉暁雄作曲[88])が決定し[87]、友愛青年同誌會第1回全國大會にはクーデンホーフ=カレルギーからメッセージが寄せられた[87]。友愛青年同誌會はのち日本友愛青年協會(1959年-2011年)、そののちに日本友愛協會(2011年-)となる。友愛の伝道者となった一郎が友愛団體フリーメイソンリーに入會したのは1951年であった[71]。
畫像外部リンク | |
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日本語版『自由と人生』を持つフィッシャー大統領[89] - 2009年9月30日、日墺首脳會談。(ゲッティ?イメージズ社所蔵) |
一郎の孫鳩山由紀夫の「友愛」思想も祖父一郎を介してクーデンホーフ=カレルギーの思想から影響を受けている。日本の総理大臣になった由紀夫は「日本オーストリア交流年」の2009年に行われた日?オーストリア首脳會談の際、一郎訳の日本語版『自由と人生』をオーストリア連邦大統領ハインツ?フィッシャーに手渡した[90]。
一郎の息子鳩山威一郎(友愛青年同誌會3代目會長[78])とブリヂストン創業一家出身の安子(日本友愛青年協會3代目理事長[78])との間の三人の子供たち、井上和子(舊姓鳩山、日本友愛協會評議員長[91])、鳩山由紀夫(日本友愛青年協會4代目理事長[78])、鳩山邦夫(友愛青年同誌會4代目會長[78])は友愛青年同誌會(友愛青年連盟、日本友愛青年協會、日本友愛協會)の役員を務め、さらにクーデンホーフ=カレルギーを継承するものとして鳩山友愛塾(2008年-)を開催している。
一郎の別邸であった「鳩山荘 鬆庵」(千葉県館山市)のロビーに飾られている2枚の「友愛」の揮毫はそれぞれ一郎と邦夫のものである[92]。
由紀夫は脳科學者茂木健一郎教授[93]らとともに「友愛研究會」(2013年-)[94]を開催している。由紀夫の政策には「東アジア共同體」がある。由紀夫は一般財団法人東アジア共同體研究所(2013年-)を主宰し理事長を務め、鳩山幸、孫崎享、橋本大二郎、高野孟らが役員として參加し、茂木健一郎教授は東アジア共同體研究所の事業「世界友愛フォーラム」代表幹事に就任している[95]。由紀夫は公式サイトのプロフィールで座右の銘は「友愛」を挙げ、尊敬する人物はリヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーではなく、ジョン?F?ケネディを挙げていた[96]。
1967年10月30日には、日本の鹿島平和財団から第1回「鹿島平和賞」を贈られた[67]。その授賞式や報道関係の取材に協力するため、鹿島平和財団、NHK、友愛青年同誌會の三者の招待で10月26日から11月8日にかけて夫婦で訪日した[67][78]。この時の訪日で天皇裕仁(昭和天皇)と香淳皇後に謁見し、皇太子明仁親王と美智子妃も接見し、各界の指導者と會見し、數回の講演を行った[67]。クーデンホーフ=カレルギーにとってこの訪日は、東京で生まれて以來、71年ぶりの日本への帰郷であった[67]。翌1968年、鹿島守之助による日本語訳の著書『美の國 日本への帰郷』が鹿島研究所出版會で刊行された。この頃、鳩山一郎の長男威一郎は大蔵省主計局に勤務し、威一郎の長男由紀夫は東京大學を卒業した(1969年)。
2回目の訪日は1970年10月6日から10月28日にかけてであった[78]。今回は創価學會の全麵的な支援による招待となり[97]、創価學園東京キャンパス[98]、建設中の創価大學などを訪問し[97]、池田大作と會見した[99]。クーデンホーフ=カレルギー離日後の日本は、およそ1か月経過したのちの11月25日、元大蔵官僚?戦後日本の大作家でトーマス?マン等を敬愛していた三島由紀夫[100]が1968年に結成した楯の會會員を引き連れ(同1968年『わが友ヒットラー』発表)、楯の會の「父でもあり、兄でもある」自衛隊(散布「檄」から)の市ヶ穀駐とん地において自衛隊員に向けてクーデターを呼びかけるが空転に終わり、そうかと分かった三島が割腹自殺を遂げて絶命するという空前の出來事に直麵した(三島事件)。
「池田大作#活動」も參照
クーデンホーフ=カレルギーの晩年、世界は冷戦下にあった。クーデンホーフ=カレルギーは世界平和の実現のため、仏教に、創価學會に希望を抱き[102]、1967年の訪日(帰郷)に際し、當時創価學會の會長であった池田大作との會見を強く求め[99]、鹿島、NHK、友愛青年同誌會の関係者一同は創価學會への接觸に反対していたが構うことなく[103][104]、1967年10月30日に會談を実現した[105][106]。クーデンホーフ=カレルギーは自分より30歳以上若い池田を好人物?知性ある人物として高く評価した[103]。クーデンホーフ=カレルギーは池田が日本國外の知識人?要人と対談した初めての相手となった[103]。クーデンホーフ=カレルギー著『美の國 日本への帰郷』(1968年、鹿島研究所出版會)には池田に関する言及もある[103]。
會見は1970年の東京都においても行われ[99]、延べ十數時間の対談となり、クーデンホーフ=カレルギーが語った日本が成すべき世界平和実現?新たな太平洋文明の発展?平和思想としての仏教の発信、それらの考えは池田に印象を殘した[107]。
1971年、産経新聞にクーデンホーフ=カレルギーと池田の対談が連載され、対話集『文明?西と東』として1972年に刊行されている[108][97]。
クーデンホーフ=カレルギーの提案によりベートーヴェンの「歓喜の歌」は「歐州の歌」になった。創価學會にはベートーヴェンの「歓喜の歌」の旋律に創価合唱団?指揮者の服部洋一が作詞した歌詞が付いた「創価歓喜の凱歌」(「創価歓喜の歌」、「よろこびのうた」)がある[109]。
池田が1992年にオーストリア共和國から受勲した科學?芸術名譽十字章勲一等(Österreichisches Ehrenkreuz für Wissenschaft u. Kunst I. Klasse)は[110]、リヒャルトと異種の勲章で、リヒャルトの甥ミヒャエルと同種の勲章である[14]。
國會において言及されることもある。
“ | ... 歐州は、基本的には、大ざっぱに言って一つの共通の価値観がある、これはキリスト教の価値観であります。それから、生活レベルも、少なくとも歐州の今のEU十五カ國の中には貧困も餓死も宗教的、民族的対立もない。これは、過去百年のクーデンホーフ?カレルギー以來の努力が今まさに結実したことだろうと思います ... | ” |
—憲法調査會幹事?安全保障及び國際協力等に関する調査小委員長 中川昭一(2003年7月24日第156回國會「憲法調査會」第9號[119]より) |
“ | ... 私は、総理の「美しい國」から、友愛精神の提唱者であるクーデンホーフ?カレルギー伯爵が一九六八年に書いた「美の國 日本」を連想いたしました。しかし、カレルギー伯の理念は、日本という國は調和を大切にする國だということであり、それを自立と共生の精神に置きかえ、現在の日本の社會をつくり上げていこうと考えているのが私ども小沢民主黨であります。 ... | ” |
“ | ... 友愛の中身 ... カレルギーさんという ... その後のEUの同盟をちゃんとつくり上げた人の精神だというので、何か、どっちかというと外國物なんですね。 ... | ” |
“ | ... 最後に、一つだけ総理に禦紹介したい文章があります。前國會で、加藤紘一議員と総理の間で友愛について議論があったときに、クーデンホーフ?カレルギー伯のお話が出てきました。昭和四十五年十月に來日されたクーデンホーフ?カレルギー伯の講演を、私、當時高校二年生でしたけれども伺う機會がありまして、そのときの伯の結論は、二十一世紀は太平洋文明の時代だ、西洋から太平洋へ全部移るんだ、そのときに、私たち高校生、中學生に対して講演してくださったんですが、君たちが二十一世紀のこの太平洋文明を擔っていくんだというのが結論だったものですから、すごい鮮明に今でもそのときのお話は覚えているんです。そのクーデンホーフ?カレルギー伯が、四十五年に來日された後、四十七年に対談集を日本で出版されました。その中に、もう四十年前に伯はこういうことを言われているんです。民主主義は、今日二つの大きな危機に直麵しています。一つは金権政治です。 ... もう一つの危険は、扇動主義です。 ... この二つの指摘を四十年前にクーデンホーフ?カレルギー伯がされたということは物すごいことだと思いますし、この警鐘を我々國會議員は與野黨を問わずしっかり受けとめていかなければいけないというふうに思います。 ... | ” |
クーデンホーフ=カレルギーは第二次世界大戦下の1942年に公開されたアメリカ映畫「カサブランカ」に登場する人物のモデルであると言われている[3]。モデルと言われている人物はポール?ヘンリード(1905年-1992年)が演じた自由フランスのドイツ抵抗運動指導者「ヴィクトル?ラズロ」である。ナイトクラブ「カフェ?アメリカン」の店主「リック?ブレイン」(ハンフリー?ボガート、本映畫の主役)の戀人でヴィクトル?ラズロの妻「イルザ?ラント」役を演じたイングリッド?バーグマン(1915年-1982年)は、世代ではリヒャルト?クーデンホーフ=カレルギー(1894年-1972年)の妻イダ(1881年-1951年)よりは、娘のエリカ(Erica Coudenhove-Kalergi)に近い(米國渡航時のイダは59歳)。また現実のナチス?ドイツは反ユダヤであると同時に反フリーメイソンリーであった[18]。
カナダのフリーメイソンリー本部(グランドロッジ)によると、男がヴィクトル?ラズロにロレーヌ十字が裝飾された指輪を見せて同士であることを証明するシーンがあり(反樞軸國シーン)、しばしばそれは高位階級のフリーメイソンのために用いられる十字と見紛うのであるという[126][127][128]。
アフリカ大陸のフランス領モロッコにある都市カサブランカは映畫の當時、ナチスから逃れるためにリスボンから米國へ亡命する経由地となっている港であった[129]。
カサブランカにある米國白人リックのナイトクラブ(「カフェ?アメリカン」)は亡命者の溜まり場になっていった[129]。リックのクラブの一角でドイツ軍人たちがドイツ軍歌『ラインの守り』を店內のピアノを弾きながら歌うのに対抗して、ラズローはフランス國歌『ラ?マルセイエーズ』をクラブのバンドに指示してバンド演奏で歌い始め、店內ほぼ総立ちで『ラ?マルセイエーズ』の大合唱となる。ドイツ軍人たちは自分たちの軍歌を止め著席してしまう。
『ラ?マルセイエーズ』は1782年にフランスでフリーメイソンリーに入會したフランス軍人クロード?ジョゼフ?ルージェ?ド?リール大尉が1792年に作詞作曲をして1795年にフランス國歌となった歌である[130]。
「カサブランカ」の配給元ワーナー?ブラザーズの設立者ワーナー四兄弟のうち三人(長男ハリー、三男サム、四男ジャック)がフリーメイソンであることが判明している[131]。三人のメイソンリー入會の年月日は判明していないが、長男ハリーと四男ジャックは映畫當時の1942年に存命し、三男サムは1927年に死去している。オーストリア=ハンガリー帝國出身のハンガリー人マイケル?カーティス監督を米國(ハリウッド)に迎えたのは四男ジャック?ワーナーである[132]。「カサブランカ」製作はワーナー?ブラザーズ社のワーナー?ブラザーズ=ファースト?ナショナル[129]。
スペイン語「Casablanca」(カサブランカ)とは直接は「白い家」の意味であるが、アメリカ合衆國の「ホワイトハウス」はスペイン語で「Casa Blanca」である。1942年のホワイトハウスの當主フランクリン?ルーズベルト大統領(任期1933年-1945年)はフリーメイソンであり、1911年10月11日にニューヨーク市でフリーメイソンリーに入會した[133]。フランクリン?ルーズベルトはワーナー?ブラザーズの長男ハリー?ワーナーと親しい友人であった[134]。
クーデンホーフ=カレルギーがヴェルサイユ條約に反対した、米國の戦略上「汎ヨーロッパ」は容認できなかった、母親(光子)が米國の敵國日本出身である、など理由は諸説あるが、フランクリン?ルーズベルトはクーデンホーフ=カレルギーの亡命時に麵談を拒否している[5]。
フランクリン?ルーズベルト政権4期目の副大統領でフランクリン?ルーズベルトの次に米大統領を務めたフリーメイソンのハリー?S?トルーマン(1909年2月9日フリーメイソンリー入會[50])はクーデンホーフ=カレルギーのヨーロッパ統合論を支持した[12][69]。
フランクリン?ルーズベルトからの冷遇、トルーマンからの厚遇は、1940年に反ナチス映畫『獨裁者』を米國で発表したチャップリンとは逆であった。
左からヘンリード(ラズロ役)、バーグマン(イルザ役)、レインズ(ルノー署長役)、ボガート(リック役)。映畫で3回出てくる一世を風靡した名台詞「Here's looking at you, kid.」(君の瞳に乾杯。)とはリックからイルザへの台詞である。
ロレーヌ十字。この形狀の十字が裝飾された指輪のシーンがある[126]。
クーデンホーフ=カレルギー?ヨーロッパ賞(獨: Coudenhove-Kalergi-Europapreis、英: European Prize Coudenhove-Kalergi)は、リヒャルト?クーデンホーフ=カレルギーを記念して1978年にジュネーヴに設立された「クーデンホーフ=カレルギー財団」、2008年にウィーンに移転して改名した「ヨーロッパ社會クーデンホーフ=カレルギー(獨: Europa-Gesellschaft Coudenhove-Kalergi、英: European Society Coudenhove-Kalergi、仏: Société Européenne Coudenhove-Kalergi)」により授與される賞である。対象者は歐州統合への顕著な貢獻人物[135]。
賞は1978年から始まり、受賞者は第6代ドイツ連邦首相ヘルムート?コール(1990年受賞)、第40代米大統領ロナルド?レーガン(1992年受賞)、第8代ドイツ連邦首相アンゲラ?メルケル(2010年受賞)、初代歐州理事會常任議長ヘルマン?ファン?ロンパウ(2012年受賞)らの人物[136]。
リヒャルト?ニコラウス?栄次郎?クーデンホーフ=カレルギー | ||
先代: - | 國際汎ヨーロッパ連合會長 1926年 - 1972年 | 次代: オットー?フォン?ハプスブルク |