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這個合唱組叫あみん。
あみんは、岡村孝子(おかむら たかこ 1962年1月29日- 愛知県岡崎市出身)と、加藤晴子(かとう はるこ 1963年1月2日- 愛知県豊川市出身)の-POPのユニット。アルファベット表記は「Aming」。代表作となった『待つわ』は現在でも耳にする機會の多いスタンダードナンバーである。
歌うときは、向かって左側に岡村、右側に加藤が立つ(コンサートでは曲目によって立ち位置が入れ替わることもある)。岡村の歌う主旋律に加藤がハーモニーを加える曲が多い。
1980年代前半にシングル4枚とオリジナルアルバム2枚をリリースののち活動休止、2007年に活動再開。
來歴
名古屋の名門女子大、椙山女學園大學の同級生として出會った岡村と加藤が、意気投合しユニットを結成。
岡村は、愛知県立岡崎北高等學校を卒業して、一浪後に同大學に入學。加藤は、愛知県立小阪井高等學校を卒業後、同大學に入學。2人は1歳違いで、同級生である。
その出會いは、岡村孝子が大學の教室內で、履修屆を書く際に、前の席に座っていた加藤晴子の背中をペンでつついて書き方を尋ねた(もしくはペンでつついて消しゴムを貸してもらった)のが2人の出逢ったきっかけ(當時出演したザ・ベストテンでの二人の談)。
ユニット名は、さだまさしの楽曲『パンプキン・パイとシナモン・ティー』(1979年、アルバム『夢供養』収録)に登場する喫茶店「安眠(あみん)」から取った。當初は「亜未夢」という漢字を當てていたものの「あくむ」などと誤読されることが多かったため、ひらがな表記に変えた(餘談だが、さだまさしが喫茶店の名前にした「安眠(あみん)」の由來は、ウガンダの獨裁者イディ・アミンである)。
1981年秋、第22回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通稱ポプコン)に『琥珀色の想い出』で出場し、中部北陸大會で優秀曲賞を受賞。だが本選(全國大會)へは進めずじまい。ちなみに、このとき同じブロックからアラジンの『完全無欠のロックンローラー』が本選に進みグランプリを獲得した。
1982年春、第23回ポプコンに『待つわ』で出場。5月16日の本選に進出、グランプリを獲得した。
1982年7月21日、『待つわ』で日本フォノグラムよりレコードデビュー。楽曲が多大なる共感を得て、デュエットによるハーモニーの新鮮さや清潔感と相まって同年のトップセールスを記録するほどの大ヒットとなる。あまりの有名さと分刻みのスケジュールで、大學の授業に出ると教授から「芸能人は來るな」と教室を追い出されるというエピソードもあった。1982年12月31日には第33回NHK紅白歌合戦に出場。
1983年4月25日、ファーストアルバム『P.S. あなたへ…』をリリース。他のアーティストからの提供曲も歌わせたいというレコード會社側の意向と、できるだけ多く自作曲を歌いたいという當人の意向が衝突し、當初は前年の10月にリリースする予定だったものを延期して、あみん側の意向を通し、オリジナル曲中心の構成となった。
1983年5月から全國6か所で初ツアー。だが、この頃から活動をやめようという意見が出始める。當時は「多忙さに伴う學業との両立問題」が理由とされていたものの、本當の理由は違うところにあることが後年になって明かされた。2005年6月12日にBS2(NHK)で放映された岡村のライブ番組內で、加藤がインタビューに答えたところによると、「自分の才能のなさから、音楽業界は自分の居場所ではないと思うようになった」ことが動機で、ただ當時の岡村には言えなかったため、學業との両立を口実に休止を切り出したとのことである。
結局、1983年12月18日、愛知県勤労會館のコンサートが最後の活動となった。このコンサートがファイナルであることはあえて公表されず、翌々日の1983年12月20日にリリースしたアルバム『メモリアル』を以て休止ということになっている。アルバム『メモリアル』は、前作とは対照的に、全曲がヤマハ音楽振興會所屬・出身アーティストによる既発表曲のカバーであった。