カール・ポパーによる科學の定義とその解説
科學哲學者のカール・ポパー(1902-94)は科學の定義として、『科學理論は実験(客観的データ)によって反証出來なければならない』と主張している。ちょっとこれだけではわからないので、このことを分かりやすく解説した啓蒙書を紹介しておく。竹內 薫著『世界が変る現代物理學(ちくま新書 No.493)』という本のp.94-97 にある 反証可能性によって科學と非科學は『區別』されるという項です。以下はその部分の引用です。
● 反証可能性によって科學と非科學は「區別」される
一般に、「科學理論(仮説)は実験によって検証できなくてはならない」というのは暗黙の了解になっていることでしょう。たしかに、実験によって確かめることができないのであれば、それは「科學」の名にあたいしない、というのは説得力のある言明です。
しかし、科學哲學者のカール・ポバー(1902-94)によれば、科學を科學たらしめているのは、その「検証可能性」ではなく「反証可能性」なのです。つまり、「科學理論(仮説)は実験によって反証できなくてはならない」 というのです。
わかりにくいでしょうか?
ニュートンの萬有引力にせよ、量子論にせよ、相対性理論にせよ、あらゆる科學理論は「仮説」の段階から始まって、実験によって「検証」されます。すると、それは「正しい理論」ということになって、やがて教科書に載るのです。
しかし、それは科學に特有の事態ではありません。
たとえば宗教を例にとってみましょう(宗教というのは、あくまでも説明のための架空例です。私自身、カトリックの信者であり、宗教一般を否定する立場はとっていません。違和感がある方は「政治信條」と置き換えてくださっても結構です)。
ある宗教家が登場して周囲の人々に自分の「教義」を布教しはじめます。最初のうち、人々は宗教家の言うことを懐疑の目で見ていますが、その宗教家の「予言」が実際に現実のものとなったとしましょう。すると、その予言が當たった、と感じて入信するも出てくることでしょう。ですが、大部分の人は、
「たまたま一回だけ偶然に當たっただけさ」と考えて、入信にはいたりません。
しかし、仮に、この宗教家の予言が何度もたてつづけに當たったとしましょう。すると、より大勢の人が、それを「奇跡」と感じて、次回も宗教家の予言が當たるにちがいないと考えはじめることでしょう。
宗教も科學と同様、「検証」されてゆくものなのです。
しかし、カール・ポパーによれば、科學と宗教(あるいは他の文化的な営為)の間には決定的な差があるというのです。それが「反証可能性」です。
科學理論も宗教の予言と同様、たてつづけに「當たる」ことが必要です。つねに検証されつづけなくてはなりません。しかし、科學理論は、同時に、反証を受け入れるのです。
誰かが実験精度を上げて、再度実験してみた結果、理論の予測とのズレが検出されたとしたら、科學は「潔く」その結果を受け入れるのです。仮に何萬回も実験によって検証しっつけられたとしても、実験精度ががって、反証されたならば、その理論は、自らの「限界」を受け入れなくてはなりません。それが科學を科學たらしめている規範なのです。
それに対して、件(くだん)の宗教の場合、反証は容易ではありません。そのような事例については枚挙にいとまがないので、あえて例をあげることはしませんが、宗教を「反証」によって否定するのは大変に難しいことだ、という點は、ご理解いただけるのではないかと思います。
すなわち、科學は反証を受け入れるシステムであるのに対して、非科學は必ずしも反証を受け入れるシステムになっていない、というのがポパーの考えなのです。
いったい、何が科學を科學たらしめ、それ以外の文化と區別しているのか。
ポパーの問題意識は科學と非科學の 「區別」 にあるのです。ポパーは、それが可能だと考え、合理的に進歩しっづける科學の基準として反証可能性を主張したのです。