卵と壁
作家の村上春樹さんが2月15日、イスラエル最高の文學賞「エルサレム賞」授賞式で行ったスピーチ
そう、僕はイスラエルにやってきました。小説家として……「噓」を紡ぐ者として僕はここに來ました。
「噓」をつくのは小説家だけではありません。政治家も(大統領閣下、すいません)、外交官もまた、噓をつきます。
けれど、小説家と彼ら(政治家や外交官)のつく「噓」にはいくつかの違いがあります。
僕たち小説家は噓をついても訴えられることはないし、その噓がより大きければ、多くの賞賛を得ることができます。
そしてまた、彼らと僕たちの「噓」の違いは、僕たち(小説家)の噓が、時に真実を照らし出す一助になることにもあります。真実をつかみ取ることは非常に困難なことです。ですから僕たちは、その真実を「フィクション」の世界に作り替えるのです。
本日、僕は「真実」を話すつもりです。僕は1年のうち數日だけ、噓をつかない(小説を書かない)日があり、今日はそのうちの1日なのです。
今回のエルサレム賞受賞について打診された時、僕はその賞を受け取るべきではないと、多くの警告を受けました。なぜならガザは紛爭の最中にあったからです。「いまイスラエルに行くことは適切なのだろうか?」、「僕はどちらか片方に肩入れするのだろうか?」「その賞を受け取ることは、圧倒的な軍事力を行使する政策を是認したことにならないか」と自問しました。
もちろん、こうした印象を受けることによって、僕の本がボイコットされることはあり得ません。しかしながら、最終的に僕はそれらを考慮し、その上で、ここに來ることに決めました。來ることを決心した理由のひとつは、非常に多くの人が僕に「行くべきではない」と言ってきたことです。多くの小説家がそうであるように、僕は僕が天の邪鬼であることを好んでいますし、それは僕の、小説家としての本質に関わることです。
小説家は自分の目で見たこと、自分の手で觸ったことしか信じることができません。ですから僕は、何も語らないでいるよりも、自分で見て、ここで語ることを選びました。
そしていま、僕はここに來て語っています。
僕は立ちすくんでいるよりも、ここに來ることを、目を反らすよりも見つめることを、沈黙よりも語ることを選びとりました。そのうえで、僕はひとつの、とても個人的なメッセージを屆けるためにここに來ています。これは僕が「フィクション」をつづるさいにいつも心がけていることであり、紙切れに書きつけて壁に貼る、というわけではないけど、僕の心の「壁」には刻み込まれていることです。それは、もしその「壁」が――その壁にぶつけられる「卵」が壊れてしまうほど――固く、高いものであるならば、どんなに「壁」が正しくとも、どれほど「卵」が間違えていたとしても、僕は卵のそばに立つでしょう。
なぜか? 僕たちひとりひとりが、その「卵」だから、かけがえのない魂を內包した壊れやすい「卵」だからです。僕たちはいま、それぞれが「壁」に向かい合っています。その高い壁は、「システム」です。
僕が小説を書く際、たったひとつの目的しか持っていません。それは個々人のかけがえのない神性を引き出すことです。その個性を満足させるために、そして僕たちが「システム」に巻き込まれることを防ぐために。だからこそ僕は、人々に微笑みと涙を與えるべく、人生と愛の物語を書きつづります。
僕たちはみな、人間であり、個人であり、壊れやすい卵です。
「壁」はあまりに高く、暗く、冷たすぎて、それに立ち向かう僕たちに、望みはありません。(だからこそ)「壁」と戦うために、僕たちの魂は、暖かさと強さを持つべくお互いに手を取り合わなくてはなりません。僕たちは僕たちの作った「システム」に操られてはいけません――そのように僕たちを形作ってはいけません。それはまさに、僕たちが作った「システム」なのですから。
僕の本を読んでくれたイスラエルの人々に感謝します。
僕たちはいくつかの意義を共有できると願っています。
(そんな「共有できる」)あなたたちこそが、僕がここにいる最大の理由なのです。