「私にとって母を語るのに、父、內田裕也をなくして語れません。本來なら、このような場で語ることではないのかもしれませんが、思えば、內田家は數少ない互いへのメッセージ発信をいつも大勢の方々の承認のもとに行っていた“奇妙な家族”でした。
また生前、母は恥ずかしいことこそ、人前でさらけ出すというやっかいな性分だったので、皆様が困らない程度に少しお話しさせてください。
私が結婚するまでの19年間、うちは母と私の2人きりの家庭でした。
そこにまるで、象徴としてのみ君臨する父でしたが、何をするにも私たちにとって大きな存在だったことは確かです。
幼かった私は不在の父の重すぎる存在に、押しつぶされそうになることもありました。
ところが困った私が、『なぜこのような関係を続けるのか』と母を問い詰めると、平然と『だってお父さんにはひとかけら、純なものがあるから』と私を黙らせるのです。
自分の親とはいえ、人それぞれの選択があると頭ではわかりつつも、やはり私の中では、永遠にわかりようもないミステリーでした。
ほんの數日前、母の書庫で探しものをしていると、小さなアルバムを見つけました。母の友人や、私が子供の頃に外國から送った手紙が丁寧に貼られたページをめくると、ロンドンのホテルの色あせた便箋に目が留まりました。それは母がまだ悠木千帆と名乗っていた頃に、父から屆いたエアメールです。
『今度は千帆と一緒に來たいです。結婚1周年は帰ってから2人きりで。蔵王とロサンゼルスというのも、世界中にあまりない記念日です。この1年、いろいろ迷惑をかけて反省しています。
裕也に経済力があれば、もっとトラブルも少なくなるでしょう。
俺の夢とギャンブルで高価な代償を払わせていることはよく自覚しています。突き詰めて考えると、自分自身の矛盾に大きくぶつかるのです。
ロックをビジネスとして考えなければならないときが來たのでしょうか。最近、ことわざが自分に當てはまるような気がしてならないのです。早くジレンマの回答が得られるように祈ってください。落ち著きと、ずるさの共存にならないようにも。
メシ、この野郎、てめぇ…でも、本當に心から愛しています。
1974年10月19日 ロンドンにて 裕也』
今まで想像すらしなかった、勝手だけれど、父から母への感謝と親密な思いが詰まった手紙に、私はしばし絶句してしまいました。
普段は手に負えない父の、混沌(こんとん)と、苦悩と、純粋さが妙に腑に落ち、母が誰にも見せることなく、大切に自分の本棚にしまってあったことに納得してしまいました。
そして、長年、心の何処かで許しがたかった父と母のあり方へのわだかまりがすーっと解けていくのを感じたのです。
こんな単純なことで、長年かけて形成されたわだかまりが解け出すはずがないと自分にあきれつつも、母が時折、自虐的に笑って言いました。
『私が他所から內田家に嫁いで、本木さんにも內田家を継いでもらって、みんなで一生懸命、家を支えているけど、肝心の內田さんがいないのよね』と。
でも、私が唯一親孝行できたとすれば、本木さんと結婚したことかもしれません。(本木さんは)時には本気で母の悪いところをダメ出しし、意を決して暴れる父を毆ってくれ、そして、私以上に両親を麵白がり、大切にしてくれました。
何でもあけすけな母とは対照的に、少し體裁のすぎる夫ですが、家長不在だった內田家に、靜かにずしりと存在してくれる光景はいまだにシュール過ぎて、少し感動的ですらあります。
けれども、この絶妙なバランスが欠けてしまった今、新たな內田家の均衡を模索するときが來てしまいました。
おじけづいている私はいつか言われた母の言葉を必死で記憶から手繰り寄せます。
『おごらず、人と比べず、麵白がって、平気に生きればいい』
まだたくさんすべきことがありますが、ひとまず焦らず家族それぞれの日々を大切に歩めたらと願っております。
生前母は、密葬でお願いと、私に言っておりましたが、結果的に光林寺でこのように親しかった皆さんとお別れができたこと、またそれに際し、たくさんの方々のご協力をいただく中で、皆さまと母との唯一無二の交流が垣間見えたことは殘されたものとして、大きな心の支えになります。
皆さま、お一人お一人からの生前のご厚情に深く感謝しつつ、どうぞ、故人同様、お付き合いいただき、ご指導いただけますことをお願い申し上げます。
本日は誠にありがとうございました」