看到篇老文章:なぜ靖國參拝が問題なのか

來源: 人約黃昏後 2012-10-18 08:40:07 [] [博客] [舊帖] [給我悄悄話] 本文已被閱讀: 次 (6716 bytes)

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なぜ靖國參拝が問題なのか

天皇と國家と兵士を結ぶ回路を追認する


2001年9月

鬆 葉 祥 一
神戸市看護大學

『週刊読書人』第2402號(2001年9月7日付)[論潮 9月]欄に掲載されたものを『週刊読書人』編集部および著者の許諾を得て転載

なぜ首相の靖國神社參拝が問題になるのか。それが,〈現在〉この國の「國民」がどのような國家を作ろうとしているのかを示す試金石だからである。小泉首相は,靖國に參拝するのは〈過去〉の戦死者に敬意を表すためだと言う。しかし,戦沒者に敬意を表すためであれば政府主催の全國戦沒者追悼式で十分である。首相が就任當初から,他の政治課題と並べて,八月一五日に靖國參拝を行うと繰り返し強調してきたことは,逆に〈現在〉そのことに大きな象徴的意味があることを示している。では,首相が靖國神社に參拝することにどのような意味があるのか。



それはまず第一に,「國のために戦って死ねば神様になれるという回路」を國として認めることである(井上ひさし,『朝日新聞』八月九日夕)。この回路があったからこそ,この國の政府は,生きながらにして爆弾になれ,魚雷になれと若者に命じ,一六・五%の命中率しかない特攻に送り込むことができたのである。否,それは國のためではなく,<天皇のため>であった。実際,靖國神社においては,天皇にとって逆賊だった西郷隆盛たちは排除されているのに対して,官軍の戦沒者は,「天皇のために忠死したという唯一點で,國によって神として祀られ,現人神天皇の禮拝を受けるという無上の栄譽」(『國史大辭典』吉川弘文堂)を與えられている。この靖國神社があってはじめて,天皇と國家と兵士を結ぶ回路が完結するのである。それゆえ靖國神社は,戦時中「軍國主義を普及徹底させるうえで,絶大な威力を発揮し,日本國民を侵略戦爭にかりたてる精神的支柱としての役割を擔うことができた」(同書)のである。多くの反対を押し切って首相が靖國神社參拝を強行することは,少なくともこの回路を追認することになることは明らかである。さらに,現在再び若者たちをこの回路に誘い込もうとする意図があると理解されても仕方がない。
そこから第二の意味が生じる。すなわち,首相の靖國參拝は,「日本は紛爭解決の手段として戦爭を選びもするぞ」(井上ひさし)と公言することに他ならない。それゆえ,「天皇の軍隊によって運命をひどく悪い方へ変えられてしまったアジアの國々」が危機感をもつのは當然である。アジアから見たとき,靖國神社は日本の軍國主義と侵略戦爭の象徴だからである。それは,一九七八年東條英機元首相ら一四名のA級戦犯が,「昭和殉難者」として合祀されたことによって強まった。この戦爭指導者たちを神として祀る靖國神社に首相が參拝し「心をこめて敬意と感謝の意をささげる」行為は,過去の侵略戦爭を肯定する立場に日本政府が立つこと,その上で現在それを踏襲しようとしていることを內外に表明することにほかならない(中江要介「総理は靖國公式參拝を決行すべきではない」,『世界』九月號)。したがって,中國や韓國による靖國參拝批判は內政幹渉だという主張(中嶋嶺雄「なぜ中國は反対するのか」,『Voice』九月號)は成立しない。それが,この國の基本的な外交・軍事方針を示し,近隣諸國にはっきりした脅威をもたらすものである以上,重要な外交問題だからである。



第三に,それは「わたしたちをゆるやかに束ねながら,私たちの共通の価値ともなっている」(井上ひさし)憲法をないがしろにすることを意味する。すなわち,閣僚による靖國參拝は,どのように解釈しようが,「國および國の機関はいかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた憲法第二〇條に違反することは明らかである(奧平康弘「首相靖國參拝に疑義あり」,『潮』九月號)。実際,九一年に出されて確定した岩手靖國訴訟の仙台高裁判決は,「首相の靖國神社公式參拝は違憲」と明言している。さらに九七年四月,最高裁大法廷判決は,愛媛玉串料訴訟において,「地方公共団體による靖國神社や護國神社への玉串料等の奉納が,たとえ相當數の者が望んでいるとしても,公共団體が特定の宗教団體に対して特別の関わりあいをもつことであり,宗教団體である靖國神社や護國神社が特別のものであるとの印象を一般に與えるものであるから,憲法が禁止する國家や公共団體の宗教活動にあたり違憲」だとした。今回の參拝は,玉串料等の奉納よりも直接に靖國神社との関わりを顕示するものであり,その違憲性はよりいっそう明らかである。八月一五日を避けたからよいわけでも,私的參拝だからよいわけでもない。首相や閣僚が靖國神社に參拝すること自體がすでに違憲なのである(今回の靖國神社參拝違憲訴訟の提起に向けた準備作業が始まっている。日本基督教団靖國・天皇製問題情報センター,neco@gb3.so-net.ne.jp)。
もちろん小泉首相は,「虛心坦懐に熟慮」したわけであるから,自らの行為がこのような意味をもつこと,また世論の六五%が參拝を慎重にした方がよいと考えていること(『朝日新聞』八月四日),歴史修正主義の教科書が問題になった直後であること,自らの行動が平和を望む日本とアジア近隣諸國の民衆を不安に陥れ,これまで積み上げてきた中國や韓國・朝鮮との友好関係を破壊することなどをじゅうぶん承知の上で,「あえて蜂の巣に手を突っ込むようなこと」(『ル・モンド』八月一〇日)をしたのである。そこには,憲法とくに九條を改正し,「戦爭のできる國づくり」をめざそうとする彼の信念が働いているとしか考えようがない。あるいは,もしかりに彼自身本當に戦爭を望んでいないのだとしても,戦爭のために重要な役割を果たした宗教施設に參拝するということが,主観的な意図を越えた意味をもつことを知るべきである。



それに,彼は死者を口実にすべきではないと井上ひさしは言う。すなわち死者を利用すること,とりわけその死を強製した國家が利用しようとすることは傲慢と言わざるをえない。古山高麗雄は次のように述べる。「死ねば,靖國も何もない。無です。招魂も追悼も葬式も生者の営みです。死者には何もない,霊などというものは,生者が生者のために作った観念だ」(古山高麗雄「萬年一等兵の靖國神社」,『文藝春秋』九月號)。そして,井上は,戦爭の犠牲者に対して生者がなすべきことは,亡くなった人たちの家族(アジア諸國の人々を含む)への謝罪と補償をできるだけして,あとは死者の魂をそっと靜かにしておくことだとする。そして生者は,これらの非業の死の意味を深く噛みしめながら,自分は二度とこのような死に方をしないし,他人にさせもしないと,心のうちで強く誓いながら生きていくしかないとするのである。
(まつば しょういち・哲學)

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那幫大臣,站在靈前不是想他們該不該死,死得值不值,死得痛苦不痛苦 -老妖老公- 給 老妖老公 發送悄悄話 (118 bytes) () 10/18/2012 postreply 08:47:51

嗬嗬,愚民簇擁之下的作秀表演而已 -人約黃昏後- 給 人約黃昏後 發送悄悄話 人約黃昏後 的博客首頁 (29 bytes) () 10/18/2012 postreply 08:52:03

日本是米國的殖民地,尤其是野田政府 -王翠花- 給 王翠花 發送悄悄話 王翠花 的博客首頁 (0 bytes) () 10/20/2012 postreply 02:34:58

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