発展と巨大な代償…中國共産黨の歴史
現代世界の歩き方(13) 東工大講義録から (1/7ページ) 2012/8/20 3:30
中國共産黨の黨大會は5年に一度開かれます。今年の秋に、その黨大會が開か
れ、現在の胡錦濤総書記が引退。後任に習近平氏が就任する予定です。
■9人が13億人を動かす
中國の人口は13億人。この中國を統治する中國共産黨の黨員數は8260萬人です。
黨の方針を決める大會が5年に一度しか開かれないということは、大會は単
なるセレモニーであることがわかります。実際の黨の運営は、黨員から選ばれた
中央委員會が行うのです。ところが、この中央委員會も年に一度しか総會が開催
されません。そこで、さらに上の中央政治局が実権を握ります。中央政治局の委
員は25人。しかし、25人では數が多すぎて、迅速な意思決定ができません。そこ
で、この25人のうち9人が常務委員となって日常の方針を決定しているのです。
13億人の國民をたった9人が統治する構造です。中國の國內政治に詳しい遠
藤譽さんは、自著の中で、これを「チャイナ・ナイン」と名づけました。
中國の次期最高指導者に內定した習近平氏(左)は米國との関係をどう築いて
いくのか(2012年02月、米ホワイトハウスで)=ロイター
この9人にも序列があります。トップはもちろん胡錦濤総書記。総書記は國
家のトップである國家主席にも就任します。2番手は呉邦國氏、3番手が溫家寶
首相です。胡錦濤國家主席と並んで溫家寶首相がよく表に出てきますから、溫家
寶氏がナンバー2かと思いきや、実はナンバー3なのです。
呉邦國氏は全國人民代表大會常務委員長。日本でいえば衆議院議長のような
立場です。全國民の代表が集まるのが全國人民代表大會であるという建前ですか
ら、そこのトップが國家主席の次に高いポストに位置するというわけです。実際
は名譽職に近い存在です。
今年秋の黨大會で、9人のうち7人が引退します。中國共産黨の常務委員に
は定年製があって、68歳を超えている人は引退する慣習になっているからです。
殘る2人は、序列6位の習近平氏と7位の李克強氏。そこで、習氏が総書記
となって來年春の全國人民代表大會で國家主席に就任し、李氏が首相になるだろ
うと見られています。
さらに、殘り7人の枠に誰が入るのかに注目が集まります。ただ、常務委員
9人の枠は、かつては7人だったので、この數に戻すべきだという主張も黨內に
はあるようです。もしそうなると、「チャイナ・セブン」になりますが。
中國共産黨の內部にも派閥があります。大別して「太子黨」と「団派」です。
「団派」の胡錦濤國家主席(右)から「太子黨」の習近平氏(中央)へと権力
が移行する(2011年07月、北京の人民大會堂)=共同
太子黨の「太子」とはプリンスのこと。つまりは二世です。親が共産黨や軍
の幹部だったことで出世した人たちが太子黨と呼ばれます。習近平氏は、父親が
元副首相であり、そのつながりで父親の友人たちの幹部によって引き上げられて
きましたので、太子黨に色分けされます。
これに対して団派の「団」とは共産主義青年団のこと。共産黨の青年組織で
す。若くして共産主義青年団での活動ぶりが評価されて共産黨に入黨。そこで著
実に実績を積み重ねて出世した人たち。つまりは実力派です。胡錦濤氏も溫家寶
氏も、このタイプです。李克強氏も団派で、胡氏は李氏を自分の後継者にしよう
としましたが、太子黨に抵抗され、李氏は序列で習氏の下になったといわれてい
ます。
■「事実上の」一黨獨裁
中國は中國共産黨による「事実上の」一黨獨裁と表現されます。なぜ「事実
上」という言葉がつくのでしょうか。それは、建前として共産黨以外に8つの
「民主黨派」があるからです。
「一黨獨裁ではない。共産黨以外に8つも黨がある」というわけです。共産
黨はこの8つの黨と共に政治を進めています。8つの政黨は政治に參加する「參
政黨」だというのが中國の言い分です。
ところが、これら8つの政黨はいずれも綱領に「共産黨の指導を受ける」と
明記しています。他の政黨の指導を受けるような黨は獨立した黨とはみなされま
せんから、「事実上の」一黨獨裁と表現するのです。
他の政黨は設立すら認められていません。たとえば、1998年3月に結成され
た「中國民主黨」の場合、米國のクリントン大統領の訪中に合わせる形で創設さ
れましたが、クリントン大統領が帰國後、全員逮捕されてしまいました。
中國共産黨はあらゆる場所に存在しています。役所はもちろん、新聞・放送などマスコミの中にも共産黨の組織があります。中國の各大學にも共産黨の支部があり、ここの支部長は大學の學長より序列は上なのです。
あなた方は、學會のセミナーなどで中國の大學を訪問することもあるでしょうが、表に出て來る學長より表に出て來ない共産黨支部長の方が力を持っているのです。
■上海で生まれた中國共産黨
約90年前、中國共産黨は50人あまりの黨員で始まった(第1回の黨大會を開いた新天地の建物、上海)
これだけ巨大な組織に発展した共産黨でも、発足時は小さな秘密結社のような存在でした。
中國共産黨が設立されたのは1921年7月のことでした。上海の高級住宅地の
一角を借りて、中國共産黨の第1回大會が開かれました。このとき黨員は全國に
わずか53人(57人の説も)でした。このうち代表12人が出席しました。毛沢東氏
もそのひとりでした。
當初は、世界革命をめざすソ連共産黨の指導を受けたコミンテルン(世界共
産黨)の中國支部として発足しました。ちなみに日本共産黨の発足は翌年のこと
です。
中國共産黨は五四運動の盛り上がりの中から生まれました。1919年、山東半
島を支配していたドイツが第1次大戦で敗北します。中國の人たちは、「これで
領土が中國に戻る」と期待していましたが、日本のものになってしまいます。こ
れに抗議する學生たちが立ち上がったのが5月4日。なので「五四運動」と呼ば
れます。帝國主義列強による植民地支配に反対する五四運動の盛り上がりの中か
ら共産黨が生まれました。當時の運動の中心は學生を中心とした都市部のインテ
リでした。インテリの黨として発足したのです。
■8萬6000人の逃避行
モスクワのコミンテルンは、中國の事情に疎いまま、ロシア革命の方式を中
國共産黨に押しつけます。1927年、コミンテルンの指示を受け、中國共産黨は武
裝蜂起を試みますが、國民黨軍により壊滅させられます。これを見た毛沢東氏は、
さっさと山嶽地帯に退避します。都市部で武裝蜂起しても勝ち目がないと悟った
毛沢東氏は、農村に革命の根拠地を建設するのです。「農村が都市を包囲する」
というゲリラ戦略を確立しました。
その後、1929年、新たな根拠地を建設しますが、國民黨軍に敗れ、逃避行を
始めます。これは後に「長征」と呼ばれます。8萬6000人が1年にわたって実に
1萬2000キロメートルも逃げ回ったのです。最終的に山嶽地帯の延安に到著した
ときには、8000人にまで減っていました。ここに革命根拠地を築きます。
長征の途上で毛沢東氏が共産黨のトップに立ち、周恩來氏が毛沢東氏に忠誠
を誓いました。
革命根拠地の中で、毛沢東氏は自己の権力を確立させるため、1942年には
「整風運動」を発動します。數千人の黨員を処刑したのです。こうして1943年5
月、毛沢東氏は中國共産黨中央委員會主席に就任しました。現在は総書記ですが、
當時は主席という呼び名でした。
1945年8月、日本が第2次世界大戦で敗北し、日本軍が中國大陸から引き揚
げると、中國では蔣介石率いる國民黨と毛沢東の共産黨が內戦に突入します。國
共內戦です。
この內戦で共産黨が勝利し、中華人民共和國が建國されました。
1949年10月1日、天安門に立った毛沢東氏は中華人民共和國の成立を宣言し
ます。中國の國旗は五星紅旗です。大きな星は共産黨、4つの小さな星は労働者、
農民、知識階級、愛國的資本家を象徴しています。共産黨が主導することが國旗
に表現されているのです。
■70萬人の「反革命分子」
中國が建國されると、直ちに70萬人が「反革命分子」として公開処刑されま
した。処刑されないまでも、「思想傾向が悪い」と判斷された人間は、強製労働
収容所(労改)に入れられました。この製度はいまも存在しています。共産黨に
逆らうとひどい目にあうということを國民に徹底したのです。
共産黨は國民黨との內戦に勝ち、中華人民共和國を建國した(1949年10月1日、
天安門樓上で中華人民共和國の成立を宣言する毛沢東主席)=ANS・共同
建國後の中國では戸籍製度が導入されました。全國民の戸籍を都市戸籍と農
村戸籍に分けたのです。農村に生まれた人は農村戸籍となり、都市に住むことが
できなくなりました。膨大な農村人口が都市に集まって來ることを毛沢東は恐れ
たからです。
また、人々は所屬する「単位」で管理されます。全國民ひとりひとりについ
て「檔案(とうあん)」という身上調書が作成されます。先祖が貧農であったか
資本家であったか、「出身」が記録されています。「出身が悪い」つまり資本家
であったりすると、出世できなくなるという狀態が続くことになったのです。
建國後の中國では、指導者・毛沢東によって國民が翻弄される事態が続きま
す。その最初は、1957年2月の「百花斉放・百家爭鳴」運動でした。これは、國
民に対して、共産黨の間違いに対して自由に批判しなさいと呼びかけたものでし
た。
これを真に受けて、共産黨を批判した人たちには大変な仕打ちが待っていました。
4か月後の6月、毛沢東氏は突然、「反右派闘爭」を開始します。共産黨を
批判した人たちを「右派」と斷じ、徹底した批判を浴びせたのです。右派とされ
た人たちは職場を追われ、投獄される人たちも相次ぎました。全國で55萬人が右
派とされて職場を追われ、うち11萬人が投獄されました。
毛沢東氏が、「右派は人口の5%程度だろう」と発言したことから、職場に
よっては、無理やり機械的に5%の人間を選び出して解雇する事態にまで発展し
ました。
これ以降、人々は共産黨や指導者のことを批判できなくなってしまいました。
間違いが正せなくなることで、中國にはさらに巨大な悲劇が襲います。「大躍進
政策」の失敗です。
1958年、毛沢東氏は「大躍進政策」を開始します。東西冷戦が激化する中、中
國の兄弟國家であったソ連は、「米國に追いつき、追い越せ」をスローガンにし
ていました。ソ連より経済力で劣る中國は、米國より経済力の小さい英國に「追
いつき、追い越せ」を目指しました。
■「大躍進政策」の悲劇
英國は鉄鋼生産で世界有數の能力を誇っていました。英國に追いつくには、
鉄鋼生産を拡大することだと毛沢東氏は考えたのです。全國の農村地帯で、鉄鋼
生産を義務付けました。
技術力のない農村部で、農民手製の爐を使っての鉄鋼生産が繰り広げられま
した。品質のいい鉄などできるわけもなく、生産物は使い物になりませんでした。
爐のための燃料として森林伐採が進み、中國の農村部から森林が消えていきます。
農業の生産性を向上させるためといって、中國では人民公社の設立が進みま
した。農地はみんなのものであり、みんなで生産し、みんなで食事するという集
団農場でした。
しかし、「みんなのもの」は、誰のものでもなくなります。農業は自然相手。
雨や風、霜などに備えての24時間労働の側麵がありますが、農民たちはサラリー
マン化して、時間外労働はしません。生産性が低下しました。
さらに農民たちは鉄鋼生産に夢中になったものですから、農業生産は一段と
低下したのです。
また、素樸な階級闘爭論を農業に當てはめました。「労働者は団結して資本
家と階級闘爭を戦うのだから、同じ階級の植物も協力して成長するだろう」と考
え、稲の密植が奨勵されました。
稲を密植すれば、風通しが悪くなり、水も栄養も足りなくなります。稲の生
産量が激減するのです。
また、稲の大敵である雀(すずめ)を退治しようと、全國で人海戦術が展開
されました。これは成果を上げ、雀が姿を消しました。結果は、害蟲の大発生で
した。害蟲を食べていた雀がいなくなったからです。
こうして農村部の極度の食糧不足に陥りますが、地方の幹部は、毛沢東氏の
指導に従わなかったとして処罰されるのを恐れ、中央には「大豊作」というウソ
の報告を上げました。
この結果、1959年から飢餓が始まります。全國で4300萬~4600萬人が死亡し
たと推定されています。とてつもない悲劇でした。
「百花斉放・百家爭鳴」で、共産黨や政府を批判した人たちが投獄されただ
けに、人々は「大躍進政策」の失敗を報告できず、被害が広がったのです。
しかし、さすがに餓死者の激増が問題になり、毛沢東氏は責任をとって、國
家主席の座を劉少奇氏に譲りました。しかし、國家主席の座は譲ったものの、権
力の源泉である共産黨主席は保持し続けました。
劉少奇氏は、トウ小平氏と共に、疲弊した中國経済の立て直しに成功します。
こうなると、毛沢東氏が保持していた共産黨主席の座も危うくなります。劉氏、
トウ氏に対する憎しみが芽生えます。
■文化大革命という名の権力闘爭
當時、毛沢東氏に次いでナンバー2だった林彪氏は、後継者の座を狙い、毛
沢東氏へのごますりを始めます。毛沢東氏の発言などをまとめた『毛沢東語録』
を発行し、毛沢東氏の神格化を進めたのです。
毛沢東氏を取り上げる時、國営メディアは、「偉大な指導者」「偉大な教師」
「偉大な統帥者」「偉大な舵(かじ)取り」の4つの形容をつけるようになった
のです。
毛沢東氏は、この個人崇拝の動きを利用します。共産黨主席の座を守り、失
われた國家権力を奪回するため、共産黨の外の勢力を利用したのです。こうして
引き起こされたのが、「文化大革命」でした。
1966年6月、清華大學付屬中學校(日本の高校に當たる)の生徒たちが、體
製を批判する壁新聞を貼りだし、自らを「紅衛兵」と名乗りました。「紅」つま
り共産主義を守る衛兵と名乗ったのです。
8月、毛沢東氏は生徒たちに「造反有理」の言葉を贈ります。「造反するこ
とはいいことだ、意味がある」という意味でした。これが報じられると、全國各
地で、若者たちが紅衛兵を名乗り、體製批判や共産黨幹部に対する批判を始めま
す。「いまの體製は、革命の精神を忘れて墮落した。新たな革命が必要だ」とい
うものでした。
『毛沢東語録』を振りかざした若者たちは、街に繰り出し、街を「革命化」
します。北京の銀座と呼ばれる「王府井大街」(ワンフーチン)は「人民路」へ
と改名させました。
成都の「陳麻婆豆腐店」は「文勝飯店」(文化大革命の勝利)という名前に
されてしまいました。
女性のパーマは「ブルジョア的だ」とされて、パーマ姿の女性たちは街中で
髪を切られてしまいます。また、スカートはズボンにさせられました。
紅衛兵たちは宗教を一切認めず、寺院は破壊されました。
信じられない行動にまで出ました。交通信號の赤が止まれの印であることに
文句をつけたのです。「赤は共産主義の色であり、前に向かって進めという意味
だ。赤で止まれはおかしい」と主張し、交差點の赤信號で止まらないように指示
を出します。このため交通事故が相次ぐようになりました。
これにはさすがに困った周恩來首相が、「赤は止まれは國際的なルールなのだ
から守るように」と指示を出して、ようやくおさまりました。
共産黨の古參幹部たちは、「墮落した」と紅衛兵たちから糾弾されます。毛
沢東氏に批判的だった幹部たちは、次々に投獄され、あるいは自殺を強要されま
した。こうして毛沢東の権威が再び高まり、奪権闘爭に勝利します。毛沢東氏の
完全な獨裁が完成します。
毛沢東氏は奪権闘爭に勝利すると、紅衛兵たちが邪魔になります。各地で勝
手な行動をとり、國家の統治に支障を來すようになったからです。そこで毛沢東
氏は、「知識青年は農民に學べ」と號令をかけます。「大學生や高校生のような
インテリは頭でっかちだから、農民たちから真の革命精神を學べ」という趣旨で
した。実際は、體のいい地方への追放でした。この結果、都市部から2000萬人の
若者が地方の農村部に追いやられました。これを「下放」といいます。
文化大革命時代、學校はほとんどすべてが閉校となり、當時の若者たちは勉
學の機會がありませんでした。読み書きを覚えることなく成長した人も多く、現
在の50代以上の年齢の人たちは、「失われた世代」と呼ばれることもあります。
1976年9月、毛沢東氏の死去で文化大革命は終息しました。しかし、この間
に300萬人が投獄され、50萬人が処刑されたというデータもあります。毛沢東氏
の奪権闘爭は、とてつもない被害をもたらしたのです。
とりわけ文化大革命後期には、「批孔」つまり孔子=儒教思想を徹底的に批判
しました。禮儀作法を守ることは「ブルジョア的だ」と批判されました。これによっ
て、中國の人たちの社會的モラルが大きく損なわれたとの指摘もあります。
■毛沢東「7分の功績と3分の過失」
1977年になると、毛沢東氏によって迫害され、地方に追いやられていたトウ
小平氏が復活します。共産黨の副主席つまりナンバー2で、中央軍事委員會主席
の座を確保します。國家の要職には就かず、共産黨の軍隊である人民解放軍を指
導・監督する中央軍事委員會主席として、中國の最高指導者になるのです。
毛沢東氏亡き後、共産黨は毛沢東氏の功績について、「7分の功績と3分の
過失」があったと評価しました。中華人民共和國を建國したのが「7分の功績」
で、大躍進政策と文化大革命で多數の死者を出し混亂させたことが「3分の過失」
に當たるというのです。「毛沢東の黨」であった以上、過失を厳しく追及するこ
とはできなかったのです。
その結果、いまになって、毛沢東時代を懐かしむ人たちが出て來ています。
どのような「過失」を引き起こしたのか、中國の歴史教科書ではほとんど扱って
おらず、革命運動ばかりが教えられるため、貧しくても平等だった當時に憧れる
というわけです。
最近になって失腳した重慶市の共産黨書記だった薄熙來氏は、毛沢東時代の
革命歌を歌うキャンペーンで人気を高めましたが、文化大革命の暗黒時代を體験
している胡錦濤國家主席や溫家寶首相が激しく嫌悪。これが薄失腳の一因にもな
りました。
実権を掌握したトウ小平氏は、1978年には日本を訪問し、発展した日本経済を
見て、中國経済の立て直しを進めます。徹底した実利主義者の彼は、社會主義の
イデオロギーにとらわれることなく、資本主義経済を大膽に導入します。「改革
開放政策」です。先に豊かになれる地方から豊かになればいいとも主張しました。
これが「先富論」です。こうした経済政策は「社會主義市場経済」と名づけられ
ました。要するに、政治は共産黨、経済は資本主義、というものでした。
また、農村地帯の人民公社を解體します。農家は生産した農産物を自由に処
分できるようになり、農業生産性は飛躍的に向上。食糧不足が解消しました。
■天安門事件が起きた
天安門事件は中國內での「愛國教育」のきっかけとなった(1989年6月5日、
戦車の前に立ちはだかる中國市民)=AP
経済が発展してくると、人々は自由に発言を始めます。政府や共産黨による
言論統製に不満を持った學生たちは、民主化運動を始めます。この運動が弾圧さ
れたのが、1989年6月の天安門事件です。
この年の5月、當時のソ連のゴルバチョフ書記長が訪中するのに合わせて世界
のメディアが中國に集まります。世界のメディアの監視下なら共産黨も勝手なこと
はできないだろうと考えた學生たちが、天安門広場に泊まり込み、民主化を求め
ました。
しかし、トウ小平氏はこれに激怒。軍隊を使って學生たちの運動を弾圧しま
した。
トウ氏は若者たちの行動を見て、「愛國心が足りない」と判斷。江沢民氏を
共産黨の総書記兼國家主席に據えて、「愛國教育」を徹底させます。実際は「共
産黨を愛そう」というキャンペーンでした。
中國共産黨は反日運動の「五四運動」の高まりの中から生まれ、日中戦爭の
中で勢力を拡大しました。つまり、「共産黨を愛そう・尊敬しよう」というキャ
ンペーンは、結果的に「反日教育」になっていったのです。
こうして中國には反日的な若者が増えることになりました。共産黨の過去の
都合の悪い歴史は教えず、功績だけを稱(たた)える。この手法が使われ続けて
いるのです。
日本から見ると、よくわからないことが多い中國。過去にこんな歴史があり、
それが、いまの中國を形成しているのです。