12年8月15日午後5時35分ごろ、中國人の男5人が、沖縄県石垣市の魚釣島に不法に上陸し、現行犯逮捕された。なめられ続ける日本の外交姿勢。尖閣諸島問題の第一人者でもある石原都知事への獨占インタビューを一挙公開する。
――(野田數都議)石原慎太郎都知事が、12年4月に発表した「東京都による尖閣諸島購入計畫」。あれからたった4カ月あまりで、寄付は、14億円、9萬人(8月6日現在)を超えました。
本當にありがたい。やはり、先の東日本の大災害も引き金のひとつになって、國民の意識が変わったのを肌で感じます。國が動かないのなら國民が自ら日本を守る、という多くの人々の誌をひしひしと感じますね。日本もまだまだ捨てたものじゃないなと、嬉しい思いでいっぱいです。
寄付金と共に手紙もいただいておりまして、中には「家族3人、裕福ではないですが、みんなで協議して1人1萬円ずつ、合わせて3萬円を寄付します」とか、「自分の村は非常に辺鄙な場所にあり、バスで1時間かけて町の銀行まで行きました。田舎の人間にも誌のある人がいます。ぜひ、郵貯にも口座を設けてください」と手紙もいただきまして、大変感激しました。郵貯の口座開設に関しては6月に対応しました。
――改めて尖閣諸島を購入すると決意されるまでに至る経緯をお聞かせください。
そもそも、こうして尖閣諸島を巡って問題が起こること自體がおかしい。尖閣諸島の領有権に関しては、沖縄返還協定で解決している。佐藤(栄作)さんが総理大臣のときに沖縄返還が行われたが、アメリカが統治権を持っている時代に、尖閣諸島周辺の他國による漁業をほったらかしにしたんです。日本の漁船は入れないのに、台灣の漁船は船団を成してうようよいた。では実際沖縄が日本に返還されたときに、その漁船がどうなっているのか。佐藤さんはそれを一番心配していた。私はオブザーバー的立場で沖縄返還交渉に関わっていたが、賀屋興宣さんが個人的に私淑していた(蔣介石の側近である)張群さんを通して蔣介石を説得した。でも実際どうなるだろうと思い、沖縄が返還された當日、真っ先に現地に視察に行ってもらったところ、台灣の漁船は1隻もいなかった。
こうしてしばらくは落ち著いていたのだが、だんだんと中國共産黨政権が力をつけてくると、尖閣諸島は我々の領域だと、とんでもない橫やりを入れてきた。あの當時から、あの辺り一帯での漁業というのは非常に漁獲が期待できる海域であって、高級魚が獲れるから、シナや台灣にとっては大きな利益を生んでいた。
しかも経済が発展し世界の技術が進んでくると、海底資源という物の掘削が可能になってくる。すると途端にシナ政府は尖閣諸島に強い関心を抱き出した。揚げ句、自國の領域だと主張までし始める始末。しかし、尖閣諸島のあの一帯は、先ほど述べた沖縄返還時にキッチリ日本の領域として條文でも認められている。つべこべ言うのなら、かねて日本が主張しているようにハーグの國際司法裁判所に出てきて主張したらいいのに、一向に出てこない。
一口に沖縄県といっても、あの辺りは岩礁や小島が非常に多い。これをいちいち記載していくのは大変だと、當時の外務省の連中が言うものだから、じゃあ僕はヨットマンなので、太平洋を橫斷するときは、東経何度何分、北緯何度何分って自分の位置を伝えなきゃならないときがある。
海上に浮かぶ岩礁や突起物にもそういう目印を6つ設けて、それを結んだ線から內側に入るのは沖縄県として返還するのはどうかと言ったら、その案が認められ、実際にキチンと條文になった。その中に尖閣諸島ももちろん入っている。
そういった経緯もあって、沖縄、特に尖閣諸島についての問題には昔から取り組んできた。その後、領有権の問題などが出てくるのだが、鄧小平に、後世の若い利口な人間たちにこの問題は任せましょうなんて言われて、バカな外務省はそれで救われた気になって、そうしようそうしようって棚上げになってしまった。あのときに「それはおかしい、あそこは日本の領土です」と、はっきり政府が言えばよかったんだ。
沖縄が返還される前、尖閣諸島周辺に群がるシナや台灣の漁船を危懼した昭和天皇が、當時総務長官だった山中貞則さんに尋ねた。 「山中、尖閣諸島には蘇鉄は生えているのか」 。山中さんは「申し訳ありません、存じません」と答えたのだが、昭和天皇は獨白のように「沖縄に蘇鉄はあるが、台灣にはない」と答えられたそうだ。植物學の學者でもある昭和天皇らしい話だが、これはすごく的を射ていて、當時の我々の先遣隊が魚釣島に上陸した際、帰還した學生たちに聞くと、「そこら中、蘇鉄だらけでした」と。人間の行き來が植物の種を土地から土地へ運んで行くわけで、これは昔から沖縄から尖閣諸島への人々の往來が頻繁にあった確固たる証しなのだ。第一、シナが尖閣諸島を自國の領土だと主張する理由に挙げる、大陸棚の延長線なんてものはばかばかしい話で、海上での波風や、潮の流れなどを考えると、沖縄から尖閣諸島に渡るよりも、シナから渡ることははるかに難しいこと。
事実として、昔から尖閣諸島は間違いなく日本の文化圏にある。
――しかし、長年にわたるこの國の不作為が現在の尖閣諸島の現狀を生み出してしまったわけですね。
12年2月に、人民日報という向こうの政府の実質的機関紙を通して、シナは、尖閣諸島における日本の実効支配を破壊するために、もっと果敢な行動を取る。武器も含めてそのための機材を揃えるぞと宣言した。おまえの國に強盜に入るぞ、と麵と向かって言われて、戸締まりしない人間がどこにいますか。今現在も実際に300隻を超える密漁船が尖閣諸島で亂獲を繰り返している。國がやらないのなら誰がやりますか。東京都民だって立派な國民だ。誰かがやらなくてはならないことを東京が引き受けた。僕が尖閣諸島を購入すると発表するに至った経緯はこういうこと。
■日本人よ、戦爭する覚悟はあるか
――2010年は尖閣諸島沖にて中國漁船衝突映像流出もありました。
當時海上保安官だった一色正春さんが、國の將來を憂い、自分のクビをかけてまでしてあの映像をリリースした。大変素晴らしいことだと思う。問題は政府の対応だ。密漁船の船長を即時釈放して、夜中の3時半に石垣空港を開けさせて、シナの高官が特別機で迎えに來て、あっちでは泥棒が國士か英雄扱いになっている。石垣空港の非常時使用にビタ一文払っていない。日本の政府はそれを黙認して、外務省は責任をほかに押し付ける。結局、沖縄地検の検事がすべて決めたことですといって身代わりに差し出した。じゃあ自分たちの責任じゃないと言うのであれば、自民黨はその地検の検事を參考人として証人喚問したらよかったんだ。
――(編集部)中國が最近になって、沖縄は日本の領土ではない、などということを言いだしています。
その話の前に、まずその呼稱からしておかしい。そもそも中國ではなくて、シナ。中國というのはわが國の岡山、広島あたりのことを指す。シナは今までずっとシナだったんだから。
さっきも話に出たが、2月に人民日報が、漁船の衝突も含めた確信的攻撃によって日本の実効支配をぶっ壊す、と。それに対応するのに國では頼りないから、今度は東京都が尖閣諸島を買って、しっかりと港もつくるぞと言ってやった。
シナに「戦爭する覚悟はあるのか?」と問われているのだから、日本は胸を張って「覚悟がある」と堂々としていたらいいんだ。
世界の専門家も、アメリカ國防情報局の日本擔當の人間も、韓國だって、通常兵器の戦隊だったら、シナが日本に絶対勝てないのはみんなよくわかっている。
シナの軍備は見かけの數だけは多いかもしれないが、それが単純に戦闘能力の高さに繋がっているとは誰も思っていない。まず、飛行機の練度がまったく違う。日本が使っているF15の改良型だったら、これは世界一の戦闘機だ。それに、あちらの海軍なんてものは実戦訓練がなくて、ロシアから買ったジャンプ台のついたような航空母艦、あんな1、2発のミサイルで沈むようなちゃちな船は世界中の笑いものだよ。タスクフォースというものは、航空母艦を2杯、3杯持たないと意味がない。そりゃあベトナムとかフィリピンだとかの國々には威嚇にはなるかもしれないけれど。大體、あんな航空母艦で中國の艦載機が離発著の訓練をしたなんて、まず聞いたことがない。
日本の対潛哨戒の能力は実は世界で一番高い。ですから、日本と、アメリカの海軍のアライアンスというものがどういうものかというと、アメリカは日本の哨戒能力を情報にして動いている、ということ。むしろ、自國の領域なのだから、自衛隊を送っても國際的にも何ら問題はない。領海侵犯をして、警告したにもかかわらず退去しないと言うのならば、自衛のために撃沈すればいいだけの話であって、それで紛爭が起こるというのならば、そのときに日本はアメリカとも協力して、しっかりと國を守ると。場合によっては日米安保も発動する。こうしっかり言ってやればよかったんだ。
かつて、安倍晉三君が総理大臣だったとき、シナがイチャモンをつけてきた。安倍君がそういうことにはこちらもちゃんと応えろ、と言ったら外務省がビビって「そんなこと言ったら、向こうは軍艦出してきますよ」と言った。実際に安倍君が「それなら日本も軍艦出す」と言ったら、蜘蛛の子散らすようにシューッと反論が消えていったんだ。
■腰抜け外務省はどこの國の役人か
自分の家を守るためには、私たちは體を張って戦爭する。やるならやるぞ、としっかり言ってやらなきゃいけないんだ。シナが日本の実効支配をぶっ壊すと言って、どういう行動に出るのかはわかりませんが、それに備えるために國が動かないなら東京が率先して尖閣諸島を領有する、ということ。
――(野田數都議)都知事と沖縄の関係は長い歴史があるとお聞きしました。
先ほど指摘した沖縄返還のときもそうだが、40年ほど前、自民黨の青嵐會で出資し合い、関西の學生有誌らで魚釣島に燈台を建てた。裸電球をぶらさげただけの簡素なものだったけれど、海が時し化けて、あそこで風待ちをする地元の漁師なんかには非常に感謝されて、みんなで感動して帰ったものだ。