都沒有記載。是大內義宏為了拉攏朝鮮而造出來的傳說。
百済王子、琳聖太子の登場
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/3520705100/3520705100100010/ht010520。
はじめて大內氏の祖を琳聖太子とする所見を披瀝している。大內氏は、朝鮮との外交を有利にすすめるためあえて百済王の子孫であることを吐露し、始祖を琳聖太子に仮託しはじめたのであろう。
「大內多々良氏譜牒」では、琳聖太子を百済王の第三子とし、一方、教弘の書は、明記しないが、物部守屋討滅の五八七年(崇峻前紀)當時、入朝したという。「譜録」に記す百済王の係譜は、餘映-昆-慶-牟都-明-淹-昌-璋(斉明王)-琳聖太子、となる。これに対し百済國の正史といえる『三國史記』(十二世紀に編修)の百済本紀は、斉明王はもちろん、琳聖太子も、記述することがない。武寧王(隆)-聖王-(明穠(めいじょう))-威徳王(昌)-恵王(李)-法王(宣)-武王(璋)-義慈王、と継承する係図となっている。しかも、「大內家係」(毛利家文庫)や末武本「大內家係」(多賀神社文庫)において、琳聖太子を武王璋(六〇〇-六四〇年)の子とし、「鷲頭山舊記」、江木本「大內家係譜」(毛利家文庫)は璋明王の子、また石清水本「大內家係図」(石清水八幡宮)は、済明王の子、さらに「譜牒」は、斉明王の第三子、とする。