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『1Q84』- 村上春樹~暴力と正しさとについて~

(2009-11-28 05:21:55) 下一個
 
 村上春樹の『1Q84』について、ずっとまとまった感想を書きたいと思ってはいたのだが、読了直前に簡単に思ったことを書いたまま、そのままになっていた。読み終えたときの感動も、內容すらも忘れかけている。未だにどう手をつけたらいいかわからない。とりあえず、小説の広範なテーマのうちの暴力と正しさとについて。

 青豆さんは、理不盡な暴力を受けて虐げられている女性たちのために暗殺をしている。人を殺す、という行為そのものも暴力だろう。暴力を以って暴力を製することが正しいことかどうか。けれど、夫が妻に日常的に振るう暴力と、青豆さんの暗殺は同じ暴力でも意味合いが全然違う。妻に暴力を振るう夫は自分の欲望を満たすためであり、その矛先は抵抗できない弱い者に向けられている。自分の欲望が中心で、欲望を満たすために弱い者を蹂躪する。青豆さんは違う。弱い者の側に立って被害者を救済するというはっきりした目的意識を持った上で、自分の持つ技術を駆使して仕事としてそれをやり遂げる。そしてその代わりに、自分自身の精神をすり減らしていく。自分の欲望を満たすための力の行使とは正反対の意味合いを持っている。
 殺される側ははっきりとした悪であり、青豆さんは弱者のために正義のために仕事を遂行する。シンプルでわかりやすい論理。正しさに疑いのない行為であるから、青豆さんには躊躇がない。
 しかし、彼女の最後の仕事はどうだろう?ある宗教団體(明らかにオウム真理教を連想させる)において少女に対するレイプが日常的になされてきたという情報を元に、青豆さんは教祖を暗殺しに赴くのだが、実際に教祖に會ってみると、教祖は殺されることを覚悟していた。というより、死を望んでいた。今まで青豆さんが殺害してきた暴力夫たちと違うものがそこにはあった。
 教祖はいったいどういう存在だったのか。悪役とヒーローと単純に二分化できない何か。集団的な力が作用するとき、個々の人間それぞれを裁くことの難しさ、これはオウム真理教の裁判で実感したことで、未だにわからない。どういう論理でどういう力が作用して、どうしてあれだけ多くの賢い人たちが人に社會に危害を及ぼすことができたのか。法的な処罰だけでは決して明らかにならない秘密がそこにある。
 彼らは正しいことをしているのだと信じてた。それはただオウム真理教事件という特殊な出來事だっただろうか。過去に國家まるごと正しさを主張して命を蹂躪するようなことがあったんじゃかなろうか。そして今現在でもどこかで起こっている出來事なんじゃないだろうか。
 
 小説の中の教祖は言った。

「世間のたいがいの人々は実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する。」
「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で矮小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。…論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味ももたない。多くの人々は自分たちが非力で矮小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている。」

 “宗教とは真実よりはむしろ美しい仮説を提供するものなのだ”。

「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは靜止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。」

 青豆さんは言った。

「そしてあなたは自分の娘をレイプした」
「交わった」と彼は言った。「その言葉の方が実相により近い。そしてわたしが交わったのはあくまで観念としての娘だ。交わるというのは多義的な言葉なのだ。要點はわたしたちがひとつになることだった。…」

「つばさちゃんについても同じことなのですか?」
「同じことだ。原理としては」
「しかしつばさちゃんの子宮は現実に破壊されていた」
男は首を振った。「君が目にしたのは観念の姿だ。実體ではない。」

“あらゆる肉體は程度の差こそあれ非力で矮小なものであり、いずれにせよほどなく崩壊し、消え失せてしまう。”
 だから、非力で矮小な肉體やその肉體が生活する現実から解脫して自分の存在が少しでも意味深く感じられるような精神世界に身をまかせることが、正気を保つ方法であるというのか。
 何が実體であり真実であり、何が観念で、何が原理で、何が善で、何が悪なのか、見極め難い。けれど、現実に存在する非力で矮小な肉體を愛おしまなければならないと思う。


 
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