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『青春の北京』-西園寺一晃

(2009-09-13 00:00:05) 下一個

 
 『青春の北京』西園寺一晃著(中公文庫・ 1973 年)を読んだ。古本屋で偶然手にした本だ。  

<著者紹介>
昭和17年( 1942 )東京に生まれる。
日中間の國交未回復の多難なおり、“民間大使”として活躍しつづけていた父西園寺公一氏の長男として、昭和33年赤阪中學在學中に家族とともに中國に渡り、10年間を北京で過ごす。
その間、中ソ論爭、文化大革命を體験する。昭和41年北京大學卒業。
(表紙裏著者紹介より)

 中學3年生で著者は父親の都合で家族とともにまだ國交のない中國に渡る。15,6の多感な時期に不安を抱えながらも著いてすぐに言葉のわからない現地の學校に通いどんどん溶け込んでいく。若さゆえの順応性ってなんてすばらしいと思う。一方で、柔らかで真っ白な心は染められやすく、情熱に駆り立てられやすいということも思った。
 日本の60年代、安保闘爭で學生たちが自らの信念に基づいて行動を起こしたように、同時代の中國の文化革命もまた、その渦の中心は學生たちであった。著者の西園寺一晃は外國人でありながら中國人の同年代の若者と同じようにその渦の中心にいて、いるだけではなく行動をも共にした。
 本書は、文化大革命を歴史のひとコマとして客観的に眺めるのではなく、當事者としての目線で、しかも革命的思想に燃えた情熱の炎がまだ収まらぬ時期に書かれた。後世の私は 、文化大革命に対して、偏った思想に盲目的に追隨した若者たちの暴走という漠然としたイメージしか抱いていなかった。しかし、本書を読むとそれだけでないことが見えてくる。特定の思想を盲目的に信じる大眾と、思想とは別の次元で政治的闘爭を繰り広げ、闘爭の道具として大眾を巧みに操作しようとする権力者たち。権力を持つ者と、持たざる者たちとでは、物事の見え方、捉え方が全く異なってくるようだ。 

 著者は権力を持たない者として激動の最中にいて、いったい何が起きているのか全體像を正確に見據える立場になかった。それにもかかわらず、また盲目的に當時の熱に浮かされた若者の一人であったにもかかわらず、不思議なことに彼の筆によって描き出された情景は著者には見えていないものを読者の現前に浮かび上がらせている。
 例えば、學內で方針がころころ変わる。學生への締め付けと支持・鼓舞が波のように繰り返し押し寄せる。一連の論文に対する評価が二転三転する。現代の読者だったら、これらは上層部で起こっている激しい権力闘爭の現れだと理解する。しかし、當時の著者は、これらは人民の幸福のために高邁な理想を追求しようとする社會主義の思想と、一部の資本家に支配され労働者が搾取される資本主義との闘爭だと考える。思想と思想の闘爭であるので、外部にある具體的な個人や組織だけでなく、自己の思想的弱點や意誌の弱さも敵だとみなされ、厳しい自己批判が要求される。それが學生たちにとっての文化大革命であった。

 この違いは、人間を個々の人間として捉えるか、それとも思想を絶対として人間を理想の思想に型にはめるように當てはめていくか、という違いでもあると思う。
 今では、後者は既に時代遅れとなったようだ。

 

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