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親切の代価

(2009-06-15 22:24:48) 下一個
 
 先日、何の番組だったか、テレビで“電車などでお年寄りに席を譲ったとき、ありがとうの言葉もなく當然のような顔をされて座られるのに怒りを感じる”という話題を耳にして、ちょっと違和感を覚えた。

 席を譲られて當然のような顔をすることを批判するならば、席を譲って當然の如く感謝の意を要求するのもまた同じことじゃないかと思う。

 この怒りに共感するかどうかという電話投票では、共感するほうが圧倒的に多かった。(投票する人に若い人が多いということもあるのだろうけれど。)

年寄りは電車の中で席を譲られて當然、という感覚は一般的でないんだということにちょっと驚く。それは當然に行われてしかるべき行為ではなく、ありがたく(文字どおり“有り難く”)思わなければいけない行為であるということなのか。

 実際には、私も席を譲ったらにこっと笑ってありがとうの一言があるとうれしい。感謝されないと張り合いがない。親切をしたらどうしても行為の代価を求めてしまう。けれどそれは私の自分勝手な感情の部分で、親切の代価を求めようとする身勝手な心をいさめる倫理ある社會がいいなと、そう思うのだけれども。

 スタジオのゲストたちの間でも、その怒りに同調する意見が優勢で、これは、席を譲るのが當然だというルールや倫理を社會に確立する必要性よりも、人と人との間の情やその場の感情的な心地良さを大事に思うゆえであろうかと考えた。

 そのゲストの一人が「年を取ってるだけで威張ってる奴がいる」と言っていた。そうか、今は年を取っているだけで尊敬される時代ではないのだ。すると、年を取るしか能のない私などはこの先一生尊敬されることはないのだろう。

  

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