來日の日は晴れてた、あの日は永遠に忘れられない日だ
母、おばあさん、おばさん 皆泣いた。私は泣かなかった。
まだ16歳の私にとっては、日本はどんな國なのか、頭にイメージができなかった。
とりかく、行ってみよう。中國で、いい大學にも合格したし、親は私のために、學籍を保留してくれた。年間6萬の人民元。
だから、もし私は日本に行って、だめだったら、中國に帰ってもいいと親がそう思ってくれた。
しかし、親は思わなかったのは、私は日本に出て行って帰らず、そのまま、6年間も経ってしまう。
ーーーーーーーーーーーー厳しい日々だったーーーーーーーーーーー
最初の一年は、厳しかった。日本的な家庭教育厳しかった。泣いた、謝った日々だった。
私は一人っ子だったため、中國に居たとき、家事や洗濯など、何もしてなかった。
しかし、私のホームスティ先のお姉さんは「これしなさい、あれしなさい」と色々言ってた。
1 足を揺すってはいけない、
2、ご飯を食べるとき、音立ってはいけない、
3、ボケットに手を入れてはいけない、
4、足でドアを開けてはいけない、
5、ご飯の入れ方 山の形にしなさい。
6、寄せ箸をしてはいけない。
7、洗濯ものを分ける
8、定期的に布団を洗い、幹す。
9、女の子だから、料理の作り方を覚える
10、男は外、女は內
11、12、、、、、、、、、、、
山ほど沢山の教育あった。1、2、3、などは親は小さい頃、教えてくれた。
しかし、そのほかの日本的な家庭教育は、私にとっては、窮屈だった。
中國でちやほやされた一人っ子の私にとっては、人生の大きな分かれ道となった。
自立な人間となる道。