【楠の部落歌】

不作修改的第一稿,淩亂真實的第一版
個人資料
正文

2007年4月25日——漁翁之利是個碗 (圖)

(2007-04-26 18:47:24) 下一個
   報關公司A社於近日正式上市了,上市紀念品是著名的九穀焼き的一個缽。NISHIOKA去大阪參加儀式,領回了這個缽,然後又轉送給了我。嚴格意義上來說,我現在的工作與報關沒有任何關連,目前主管這塊業務的是頂替了WATABE的NISHIOKA,另外加上後調來的YAMAMOTO,無論怎麽說這個缽都應該轉送給YAMAMOTO的。好複雜,這個肥缺的油水太多,多個和尚就多個分粥喝的,偏偏我誌不在此,反倒成了NISHIOKA的盟友,當然之前他也會把排隊等來的“吉野家”大帕子送給我,算是有些革命感情基礎吧。
    不過平白無故得了個精美的缽,雖說對YAMAMOTO開始有些尷尬的感覺,不過看了木盒子裏的實物後,貪婪的喜悅衝幹淨了一切不妥
   

   九穀焼の歴史は、江戸時代初期の1655(明暦元)年ごろにさかのぼります。加賀の支藩だった大聖寺藩の初代藩主・前田利治(まえだ・としはる)が、領內の九穀(現在の石川県山中町九穀)の金山で磁鉱が発見されたのに著目し、金山で錬金の役を務めていた後藤才次郎に命じて肥前有田で製陶を學ばせました。その技術を導入し、九穀に窯を築いたのが始まりとされています。

 九穀の窯は1730(享保15)年ごろに突然、閉じられてしまいましたが、原因はいまだに定かではありません。この間に焼かれたものが後世、古九穀(こくたに)と呼ばれ、日本の色絵磁器の代表として獨特の力強い様式美が高く評価されています。

  九穀の廃窯から約80年後、加賀藩営で金沢に春日山(かすがやま)窯が開かれ、再興九穀の時代に入りました。春日山窯の木米(もくべい)風、古九穀の再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描畫の宮本窯、金襴手の永楽(えいらく)窯など數多くの窯が出現し、それぞれに素晴らしい畫風を作り出してきました。
 明治時代に入ってからは、九穀莊三(くたに・しょうざ)の彩色金襴手が有名となり、大量の九穀焼が海外へ輸出されました。今日の九穀焼は、各時代の窯の上絵付けの作風を源流に、以前にも増して活発な生産が続けられています。

   

  
[ 打印 ]
閱讀 ()評論 (0)
評論
目前還沒有任何評論
登錄後才可評論.