4月9日、大阪で開かれた不服申し立ての記者會見で、小保方晴子は數カ月前の過熱する報道について質問され、一瞬、かつての笑顔を取り戻した。
■煽ったのは誰だ
若手女性研究者が、ノーベル賞級の発見―。1月29日、テレビ畫麵に映し出されたのは、有名ブランドの服飾品を身にまとった30歳のあどけない姿だった。小保方人気は瞬く間に沸騰、マスコミはその姿を追いかけ、発表の2日後には理化學研究所広報室が「報道の自粛」を呼びかける事態となった。
だが、2月に入ると暗転。論文の切り貼り疑惑などがネット上を飛び交い、2月18日には理研が調査委員會を発足させることになる。
なぜ、小保方はこれほど注目を集めたのか。過熱したマスコミ報道も問題視された。その後、「理研広報室のメディア戦略だった」という指摘も出た。共同著者の発生・再生科學総合研究センター副センター長の笹井芳樹が、京都大學教授の山中伸彌のiPS細胞への敵がい心から、必要以上に持ち上げたという聲もある。そして國民も、低成長が続く閉塞感の中で、小保方の登場に喝采を送った。
だが、「若き科學界のスター」を渇望していたのは、間違いなく理研を筆頭にした科學技術の世界だった。過酷な待遇と競爭にさらされて、日本の若き「博士」たちは未來を描きにくくなっている。
■88%が任期製
「今、理研の30代の研究者は、精神的に追い込まれている。非常に危険な狀態だと思う」。理研のグループリーダーは、自らが採用している若手研究員の置かれた狀況に危機感を抱いている。
理研の研究員は2800人を數えるが、その88%が任期製で採用されている。任期は3~5年のケースが多い。小保方は5年を期限(任期)として、1年ごとに契約している。任期は1回だけ更新できるが、多くの任期製研究員は1期で理研を去ることになる。
若手の研究者に挑戦の場を與える──。そんな高邁な趣旨が込められた任期製だが、その後の仕事が見つからない研究者があふれている。
日本で研究を続ける場合、35歳がターニングポイントになる。大學で助教になるか、研究所や企業の研究職に就職しないと、その先はポストを探すことが難しくなる。そもそも博士課程を修了すると30歳近くの年齢になるため、理研に入った研究者は、任期が切れた後に不安を抱く。「小保方さんが登場した時は、これで任期製が見直されるのでは、と期待した。だって、ノーベル賞を取るかもしれない人を、5年でクビにできないでしょう」(理研の研究者)
だが、STAP論文問題が噴出し、若手研究者の夢もついえようとしている。
そもそも、基礎研究は成果を生むまでに長い時間が必要とされる。なぜ理研で終身雇用になる道が、これほど狹く閉ざされているのか。
現在、理研の終身雇用の研究者は330人程度で、主任研究員などごく一握りの研究者に限られている。しかもこの數は減少傾向にある。背景には、人件費の問題がある。終身雇用職員の給與は、國からの運営費交付金で支払われる。だが、獨立行政法人の中期計畫で、人件費の削減目標が設定されている。
■「5年で全員が入れ替わる」
一方、任期製の研究員の給與は、プロジェクトに投入される予算や、科學研究費助成事業(科研費)、補助金などから支払われることになる。科研費が急激に伸びているため、任期製の研究員は増え続けている。だが、プロジェクトが終わってしまえば、給與の原資がなくなる。理研で任期製の比率が増え続けるのは、こうした収入の構造が背景にある。
「研究の現場は、5年経てば全員が入れ替わる。こんな巨大研究組織は世界でも珍しいのではないか」。理研橫浜研究所に在籍していた研究員は、その現実に憤り、大學の研究室に戻った。任期製の優秀な研究員が次々と去っていく一方で、一部の終身雇用の研究員は居座り続ける。若手研究者の間では、この枠を「座布団」と呼んでいる。
「高齢の研究者がやめないから、座布団があかない」。定年が60歳から65歳に延長されたことで、その座を狙っていた若手研究者が行き場をなくしている。
今、理研の若手研究員の中では、給與を外部資金に切り替える動きが出ている。理研の研究室にそのまま勤めながら、雇用先だけを変更するわけだ。ちなみに、理研に勤務する外部研究員の人數は3000人にのぼり、理研が雇用する研究員を上回っている。
■ポスドク1萬人計畫
理研の任期製研究員がこれほど増加した源流には、國の科學技術をめぐる施策がある。1996年、科學技術基本計畫が作成され、17兆円という巨額の予算がついた時、もう1つ大きな仕掛けが動き出していた。
「ポストドクター等1萬人支援計畫」
博士號取得者が増える中で、その就職先が問題になっていた。そこで、大學や研究機関に雇用資金を配布して、若い博士を任期製で採用するポスドク製度に目を付けた。この數を5年間で1萬人にするという計畫だった。「生みの親」と言われる加藤紘一は、當時、自民黨の政調會長として科學技術の振興にのめり込んでいた。
「東京大學の先生から、當時7000人だったポスドクを1~2割増やしてほしいと言われてね。博士號を取った若い研究者が、アルバイトをしないと食っていけない狀態だった。もしポスドクが増えたら研究の世界が一変するというから、仲間の議員を説いて回った」
だが、當初の予想をはるかに超えるインパクトを科學技術界にもたらす。5年後を目指した計畫は、4年で1萬人を達成。その後もポスドクは急増し、1萬5000人を超えた。その象徴が、理研の研究現場だった。
「私が言い出したから、責任があるんだけどね。科研費でポスドクを採れるようにしてくれないかと日本學術振興會の理事長に言ったんだ」
理研の理事長だった有馬朗人は、増え続ける科研費に目を付けていた。そして、管轄する日本學術振興會に働きかけた。理研は74年からポスドクを採用する製度を設けるなど、若手の活用を進めていた。その後、ポスドクをはじめとする任期製の研究者が、理研に急増していった。
■理研毒茶事件
その象徴が、97年に埼玉県和光市の本所(本社)に設立された脳科學総合研究センターだ。數百人に上る全研究員を、年俸製の契約雇用で採用した。これが、後に理研が日本各地で新設する研究センターのモデルとなった。
この時、今の事態を予感させる事件が起きていた。99年6月、脳センターの研究室のポットにアジ化ナトリウムが混入され、お茶を飲んだ研究員が救急車で運ばれている。結局、犯人が捕まらず未解決になっているが、この時、契約雇用による研究者のストレスが問題視された。その後、相談員製度を導入するなど、対応策がとられている。
毎年の契約更新は、基礎研究という地道な作業を続ける者にとって大きな精神的なプレッシャーとなる。理研の30代前半のある研究員の自宅は、研究所からわずか10分の距離にあり、そこを往復する日々を送っている。生命科學の研究に取り組むが、論文を仕上げるために數年かかるという。だが、自分の思ったような結果が出てこない。そうしているうちに、任期が迫ってくる。
■「辭めたきり行方不明になる」
「何か生活に変化を付けないと、狹い世界にのめり込んでいく」。任期が近づけば、次の職を探さなければならない。だが、気持ちの切り替えが難しいという。「辭めたきり行方不明になる人が少なくない」とこの研究者は打ち明ける。
ポスドクを終えると、大學に戻って教授を目指すケースが少なくなかった。だが、その選択肢も年々、難易度を増している。
日本のトップ研究所とされる理研には、東京大學や京都大學をはじめとする舊帝大の出身者が多い。ポスドクを終えた後は、出身大學に戻れなくても、地方國立大學や私立大學のポストに就く道が開かれていた。
「だが、今では地方大學でも、その出身者が教授職を占めるようになってきた。そうなると、彼らが指名する準教授や助教もオセロゲームのようにひっくり返り、他大學が入り込む餘地がなくなっていく」(理研チームリーダー)
この現象は、トップ大學出身者が多く集まる理研にとって、厳しい現実を突きつける。
そして、理研離れが靜かに進んでいる。
「今、博士號をとって、理研を第1誌望にする人は少ない。腰を據えて研究を続けることができない現実は、大學の研究室にも知れわたっているから」。そう言う30代の理研の研究者は、定年製の研究職が多い経済産業省所管の産業技術総合研究所に応募した。だが、理學係のため専門分野が合わず、採用を斷られたという。
また、ある研究者は、民間企業の営業職を希望したが、大學院で博士號を取得していることが、逆に作用した。「プライドが高く、コミュニケーション能力に欠けるから扱いにくい人材だと受け取られてしまう」。結局、內定が取れず、一度、米國に渡って、今は理研に任期製で働いている。
■博士倍増計畫
理研の30代を中心とする若手研究者は、急激に膨張する科學技術予算が産み落とした「科學技術バブル世代」と言える。
それは、小保方の歩んだ軌跡と重なる。
ゆとり教育が始まった80年代に生まれ、2002年、早稲田大學理工學部のAO(アドミッションズ・オフィス)入試の1期生として入學。そのまま、早大の大學院に進學する。
折しも、91年から文部省(現文部科學省)が進めた大學院重點化施策(通稱「博士倍増計畫」)によって、大學院生が10萬人から26萬人に急増していた頃だった。そのため、國立大學でも博士課程の大學院生の定員を埋めきれない時代が到來した。
■最終學歴に箔を付ける
東大大學院理學研究科を卒業した理研の研究員は、こう打ち明ける。「大學入試の偏差値では20ぐらい低い大學からも院生を集める。その多くは學歴に箔を付けることしか考えていない。でも、教授も人數合わせで採用しているから、教育するつもりがない」
こうして、學生と教員の利害が一致して、十分な教育を受けたとは言い難い博士が大量に生まれていった。ある私立大學の教授は、博士取得者の歓送會で、こう漏らした。「昔は博士と言えば、文字通り、何でも知っている博識のある人のことだった」
歴史を振り返れば、ポスドク1萬人計畫は、その5年前に文部省が描いた博士倍増計畫の受け皿を作るびほう策に見える。事実、博士を取得したが、大學や民間企業で定年製の職に就けない人の一時避難場所として使われている。
■終身雇用への道
製度の設計者たちは、いら立ちを隠さない。
ポスドク1萬人計畫を描いた加藤紘一は、4年で達成した後に東大を訪れて、その成果を質問した。すると、こう答えが返ってきた。「いや、研究施設が老朽化しているからダメでした」。この一言で、加藤はすっかりやる気がうせたという。
理研理事長として、ポスドクを積極的に採用した有馬も、「計畫より行き過ぎた」と述懐する。そしてこう提案する。
「今の理研はポスドクだけに頼り過ぎている。テニュア(トラック)を増やして、責任ある研究者を作っていくべきだ」。テニュアトラック製度とは、博士課程を修了した若手研究者で、任期の間に一定の成果を出していれば終身雇用の職を用意するというもの。この製度を導入すれば、優秀な人材が集まり、腰を據えて研究に取り組む環境が整うという。
だが、そのためには理研の収入構造を見直すという抜本的な組織改革が必要となる。ひいては、予算の付け方など、日本の科學技術政策の転換にもつながっていく。
■現代の203高地
この大手術なしでは、理研に注ぎ込む巨費が、細切れになって消えていく構図は解消されない。今の理研は全體の収入こそ大きいが、全國に散らばる研究所で1000を超えるプロジェクト(外部資金分)を抱える。その下に大量のポスドクを採用し、期間を區切って小刻みにカネを分け與えている。そのため、中途半端な研究で終わり、大きな成果が上がらない。
「理研のやり方は、203高地の乃木將軍のようだ」。理研の元研究者はそう表現する。兵(若手)を突撃させるが失敗して撤退、するとまた次の兵を送り出す。結果的に、多くの犠牲者を生み出す。
それでも、乃木希典は203高地を一度は奪取した。理研の問題は、その攻めるべき頂さえ見えていないことかもしれない。
=敬稱略
(編集委員 金田信一郎)